豊田佐吉の歩みを明治初期の日本と世界の自動車技術の発展から浮かび上がらせる:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(5)(5/5 ページ)
トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第5回は、明治初期に当たる1867年(慶応3年)〜1891年(明治24年)の世界のクルマの発展や日本の政治経済の状況を見ながら、自動織機の開発に取り組んだ豊田佐吉の姿をより鮮明に浮かび上がらせていく。
1890年:ダイムラー自動車会社の設立、豊田式木製人力織機の発明
いったん日本の政治経済の状況に戻ろう。
1890年(明治23)年、第1回衆議院議員総選挙が実施された。立憲自由党の結成、第1回帝国議会の召集、教育ニ関スル勅語(教育勅語)の発布。府県制・郡制の公布。近代化を目指す日本は富国強兵や殖産興業を推し進める。
一方、自動車関連では、11月にドイツのダイムラー自動車会社※33)が設立された。図11に示すように、フランスのプジョー初の、ダイムラー社のエンジンを採用したガソリン自動車Type 2※34)を製造した。
※33)ダイムラー自動車会社(Daimler Motoren Gesellschaft:ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト、DMG)は、ゴットリープ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハによって設立され、1890〜1926年に操業した自動車製造会社。1926年、DMGはBenz & Cie.と合併してダイムラー・ベンツとなり、Mercedes-Benzを自動車の商標として採用した。1998年にはクライスラーとさらに合併してダイムラー・クライスラーとなったものの、2007年にクライスラーが売却され、社名は再びダイムラーに戻り、2022年にはメルセデ・ベンツグループとなっている。
※34)ダイムラーのエンジンを採用したガソリン自動車Type 2は、「クアドリシクル(Quadricycle)」と呼ばれ、2人乗りで車体(シャシー)は鋼管をベースとして、乗客席下にエンジンを搭載し、冷却水がチューブ内を通る方式が特徴の565ccの水冷V型2気筒、最高出力は2HP/1000rpm。駆動は、2組のチェーンによる後輪駆動、最高速度は時速8km。全長2300mm×全幅1350mm×全高1450mm。
そしてこれらと同年の1890年、豊田佐吉23歳のとき、東京の上野で開催された第三回内国勧業博覧会※35)に行き、外国製の織機を目の当たりにした。その6カ月後、図12に示すように「豊田式木製人力織機」の特許を東京の特許局へ出願。これを販売し、研究資金を得ようとした。しかし、1人が1台しか扱えない人力織機では能率の向上に限界があることに気付き、1人で何台も扱える動力織機※36)の研究を進める。これは、後の「多能工」の発想にもつながる。
※35)内国勧業博覧会は1877年から1903年まで国内で計5回開催された博覧会。国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として、政府主導で東京(上野)で第1回から3回まで、第4回は京都、第5回は大阪で開催。最も規模が大きかったのは最後となった第五回であった。第三回内国勧業博覧会は、1890年(明治23年)4月1日〜7月31日まで開催され、この博覧会は1888年からの意匠登録制度を促進した。建物全体の面積は、第2回の約1.3倍(3万2,000m2)、出展品数は44万1458点と増加。東京電灯会社が会場内に、日本で初の電車、路面電車を走らせた。
※36)動力織機(Power Loom)とは、水車、蒸気機関、ガス発動機、電動機(モータ)などを動力源として作動する織機。動力織機のうち、杼(ひ)(シャトル)内に収められた糸巻きのよこ糸がなくなったときに、よこ糸を自動的に補充しながら織り続けることができる織機を自動織機と呼び、その機構がないものを普通織機という。日本では、力織機ともいう。
1891年(明治24年)、大津事件※37)。足尾銅山鉱毒事件。濃尾地震。内村鑑三不敬事件。
※37)大津事件は、1891年5月11日に起こった、日本訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ(後の皇帝ニコライ2世)の暗殺未遂事件。
豊田佐吉は同年5月14日、図12に示すように「豊田式木製人力織機」の特許を取得した。図12(a)は豊田式木製人力織機の外観、図12(b)は特許第1195号「織機」である。豊田式木製人力織機は、バッタン高機(たかばた)の操作性などをさらに高めたものだ。図12(c)はその特許図面である。この特許は、これまで両手で織っていた手機の動作について、片手で筬を前後させるだけでシャトルが左右に走るように、つまり筬の前後運動を杼(ひ)の左右往復運動に変えるリンク機構を用いて改良し、筬打ち(よこ打ち)機構に連結した投杼(よこ入れ)機構によって動作を安定させる。くどいようだが、その動作は筬柄(おさづか)装置を前後するだけでよこ入れと筬打ちができるようにしたもので、バッタン高機に比べ、杼を飛ばすための紐を引く必要がなくなり、片手だけで操作できた。
その特徴を機構面から見ると、図12(d)に示すように、まず(1)筬柄を前方に押すことによって、(2)クランクがラチェットに当たり、クランクがピンを中心に反時計回りに回転し、ステッキを右方向に引き、(3)ステッキの先が杼をたたいて、杼が右側に動き、よこ入れをする。このように、バッタン装置の両端に備えたリンク装置が作動して、杼を飛ばすステッキに力が伝わる。この時、左右どちらのステッキに力が伝わるかは、踏木と連動するラチェットの動きで決まる。すなわち踏木を踏むと片方のラチェットはステッキを動かすリンク装置の部品に掛かり、もう片方は外れる仕組みになっている。こうして杼が飛ばされ、 筬打ちしたあと踏木を踏み替えることによって、交互に杼が飛ばされ織れていくのである。
豊田式木製人力織機の仕組みについてご興味のある方は以下の動画をご覧いただきたい。
このような巧妙な仕掛けによって、杼投げ(よこ入れ)と筬打ちが片手でできたことから、バッタン高機よりも約4〜5割速い能率で織れ、生産効率が良くなった。そして、織物品質が向上して、よこ入れの操作が簡便になって熟練が不要になった。
また、手機では織った糸を巻き取る時の手の感触で糸の張力を探っていたが、図12(e)、(f)に示すように、豊田式木製人力織機の送出装置では、ブレーキ力で経糸張力を一定に保っていた。その巻き取りで経糸は送り出される。これによって、織物の密度が均一にできるなど品質の向上が図られ、かつ熟練工を不要にできる織機でもあり、当時としては画期的な織機であった。
しかし、豊田佐吉は織機の発明を志した当初から動力化を目指していたとから、さらに生産性を高めるカ織機の発明に取り組むことになる。この人力織機は、次回に述べる豊田式汽力織機に向けた第一歩となる発明であった。
さて、冒頭の図1の年表に示したように、1886年(明治19年)〜1891年(明治24年)の日本の経済状況は、西南戦争後のインフレーション(物の価値が高くなること)と銀本位制や殖産興業による製糸紡績、そして第一次企業勃興期によって成長がもたらされた。しかしその後、銀価下落といわゆる松方デフレーション(物の価値が低くなること)によって景気が落ち込み不況となった。そこから銀価の高騰によって再び大きなピークを迎える。(次回に続く)
参考/引用文献
- トヨタ自動車75年史
- トヨタ自動車「創造限りなく トヨタ自動車50年史」、大日本印刷、1982年11月3日
- 産業技術記念館資料
- Wikipedia
- Internet Archiveの1867年パリ万博資料
- GAZOO「<自動車人物伝>豊田佐吉…発明王、トヨタ自動車の原点」
- Old Machine Press「Otto-Langen Atmospheric Engine」
- 吉田英生「George Braytonとその時代」、日本ガスタービン学会誌、Vol.37、No.3、2009年5月
- YouTube映像「005 Der Viertakt Motor von Nikolas August Otto Meilensteine der Naturwissenschaft & Technik」
- GAZOO「<自動車人物伝>ガソリン自動車誕生(1886年)」
- 佐野彰一「自動車レースの発展(2)―パリ−ボルドー レース―」、交通安全コラム、2016年11月15日
- YouTube映像「Reconstitution 3D : tour Eiffel et Exposition Universelle」
- L’Art Nouveau「L' Exposition Universelle de 1889 a Paris」
- PEUGEOT 長崎「自動車メーカー世界最古の Peugeot」、スタッフブログ、2008年9月3日
- GAZOO「<自動車人物伝><自動車人物伝> アルマン・プジョー (1889年)」
- 玉井里菜「世界で初めて自動車を量産した、記念すべき1890年【プジョーの210年を辿る旅 Vol.3】」、AIDEA STYLE、2020年12月16日
- 「I 自動車の誕生」、第二次大戦欧州戦線等の記録/自動車発達史――自動車の二〇世紀
- YouTube映像「【トヨタ産業技術記念館】豊田式木製人力織機」
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第1回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.30、No.2、42〜47、2014年2月
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第2回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.30、No.4、36〜41、2014年4月
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第3回 1960年代後半から1970年代のトヨタ自動車のものづくりの形態」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.30、No.7、36〜41、2014年7月
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第4回 1950年代後半から1970年ころまでのものづくり形態の概要 その1」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.31、No.3、40〜44、2015年3月
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第5回 1950年代後半から1970年ころまでのものづくり形態の概要 その2」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.31、No.11、42〜47、2015年11月
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第6回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.34、No.2、44-49、2018年2月
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第7回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.34、No.5、40〜48、2018年5月
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第8回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.34、No.10、42〜47、2018年10月
- 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第9回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.34、No.2、42〜47、2018年2月
- 武藤一夫「はじめてのCAD/CAM」、工業調査会、2000年2月(B5判/285ページ)
- 武藤一夫「進化しつづけるトヨタのデジタル生産システムのデジタルのすべて」、技術評論社、2007年12月(A5判/271ページ)
- 武藤一夫「図解CAD/CAM入門」、大河出版、2012年8月(B5判/305ページ)
- 武藤一夫「実践メカトロニクス入門」、オーム社、2006年6月(B5判/228頁)
- 武藤一夫「実用CAD/CAM用語辞典」、日刊工業新聞社、1998年6月(B6判/316頁)
- 武藤一夫「エンジニア必携トヨタに学ぶデジタル生産・事例・用語集」、産業図書、2021年12月(A5判/887ページ)
筆者プロフィール
武藤 一夫(むとう かずお) 武藤技術研究所 代表取締役社長 博士(工学)
1982年以来、職業能力開発総合大(旧訓練大学校)で約29年、静岡理工科大学に4年、豊橋技術科学大学に2年、八戸工業大学大学に8年、合計43年間大学教員を務める。2018年に株式会社武藤技術研究所を起業し、同社の代表取締役社長に就任。自動車技術会フェロー。
トヨタ自動車をはじめ多くの企業での招待講演や、日刊工業新聞社主催セミナー講演などに登壇。マツダ系のティア1サプライヤーをはじめ多くの企業でのコンサルなどにも従事。AE(アコースティック・エミッション)センシングとそのセンサー開発などにも携わる。著書は機械加工、計測、メカトロ、金型設計、加工、CAD/CAE/CAM/CAT/Network、デジタルマニュファクチャリング、辞書など32冊にわたる。学術論文58件、専門雑誌への記事掲載200件以上。技能審議会委員、検定委員、自動車技術会編集委員などを歴任。
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