検索
連載

豊田佐吉の歩みを明治初期の日本と世界の自動車技術の発展から浮かび上がらせるトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(5)(4/5 ページ)

トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第5回は、明治初期に当たる1867年(慶応3年)〜1891年(明治24年)の世界のクルマの発展や日本の政治経済の状況を見ながら、自動織機の開発に取り組んだ豊田佐吉の姿をより鮮明に浮かび上がらせていく。

Share
Tweet
LINE
Hatena

4.豊田佐吉の活躍と織機技術の発展

 さて、日本の工業化(日本の産業革命)は、1880年代半ばから明治政府主導で「殖産興業」の名の下に、まず製糸工場などが設立され、「繊維産業」が機械を使った工業生産を広める「日本の産業革命」の中核産業となり、主要輸出品目として日本経済の屋台骨を支えた。その初期において、綿紡績業では1882年(明治15年)に渋沢栄一らが設立した大阪紡績会社の創業を皮切りに、最新の英国製のミュール紡績機や、蒸気機関で機械を動かす大型輸入機械を導入した近代的な綿紡績工場が次々と開業した。従業員は昼夜2交代制で、24時間紡績機を動かした結果、飛躍的に生産量が増加し、1890年(明治23年)には国内生産量が輸入量を初めて上回った。一方、生糸生産においても器械の導入が進み、1894年に器械製糸(洋式を模した器機(機械)による生糸生産技術による製糸方法)が座繰製糸(歯車仕掛けの木製の繰糸(くりいと)の道具である座繰器(人手)による製糸方法)を上回った。

 こうした時代の中で、豊田佐吉は大いに活躍する。

 ちなみに、豊田佐吉が生涯に日本で取得した工業所有権は、発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の総計132件にのぼる。織機に関してこれほどの発明を行っているのは豊田佐吉だけあり、世界に類を見ない大発明家であることに頭が下がる。

 さて、前回の連載第4回の脚注※1)で述べたように、織機で布を織るのに必要な動き(運動)は、(1)開口:水平方向に並べられた多数の経(たて)糸を交互に、あるいは適当な順序で上と下とに移動させて分け、(2)緯(よこ)入れ:その上下間に別の緯糸を直角方向に通し、(3)緯打ち(筬(おさ)打ち):この緯を前に挿入した緯糸と所定の間隔で並ぶように前進させる。

 上述の(1)(2)(3)の一連の運動を繰り返すことで織物を作れる。これらの操作を手足で行う織機を手織機(ておりき)または手機(てばた)といい、動力で運転するものを力(りき)織機といった。表1には、織機に必要な運動に対応する手機と力織機の動作、関連する豊田佐吉の発明年をまとめた。

表1
表1 手織りと力織機に必要な運動[クリックで拡大] 出所:トヨタ産業技術記念館資料に加筆、加図、修正

 手機では各運動を別々に人力で操作していたが、カ織機では各運動を有機的に関連して働かせるとともに、作業者の熟練や勘を不要とする各種の自動化装置が図10に示すように豊田佐吉によって順次発明装着され、製織作業に要する労力は大幅に減少し、織物品質は格段に向上した。

図10
図10 豊田佐吉の1900年(明治33年)以降の特許取得の歴史[クリックで拡大] 出所:トヨタ産業技術記念館資料

 図10は、豊田佐吉が取得した1900年(明治33年)以降の主な特許のあらまし(歴史)である。縦軸は緯糸補給装置およびその関連に関する発明、経糸切断停止装置、経糸送出装置、その他の織機装置、環状織機、他の機器の発明に分類して示されている。なお、1894年(明治27年)、豊田佐吉は糸繰返機を発明し、同年6月27日に特許を出願した。同じころに長男の豊田喜一郎が誕生する。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

ページトップに戻る