自動車エンジニアになれたのは「最後まで自分を信じて諦めなかった」から:そして少年は自動車エンジニアになった(挑戦編)(3/3 ページ)
自動車メーカーに勤める現役の自動車エンジニアが自身の人生を振り返る。最終回となる第3回の風雲編は、いきなりの配属変更で壁にぶち当たるところから、恩師との再合流、全社のMBD(モデルベース開発)推進統括本部での活動までを描く。
人生
2015年の春。
トキヲタ自動車株式会社に期間社員として就職してから、早いもので30年もの月日が経過します。
家族との生活も、一人息子の自立を契機に妻との二人暮らしが始まっています。
私とは異なり、一人息子の結婚話はとんとん拍子に進んで、今では自分の家族を持つ世帯主になっています。とても可愛らしい息子の嫁に「おとうさん」と呼ばれると、この上なく照れてしまいます。
この親孝行者の一人息子も、今秋にはお父さんになります。
そうです。私は40代にしておじいちゃんになるのです。
何とも喜ばしいことですし、時の流れをしみじみと感じます。
この幸せな生活に至るまでにはいろいろなことがありました。
社内で隠れて涙を流したこともありました。
会社を辞めることを考えた時もありました。
苦労続きの人生に、どうして私は生まれてきたのだろう……などと……。
真剣に悩んだ時期もありました。
その中で、ふと考えることがあります。
果たして自分は、子どもや孫に誇れる人間になれたのだろうかと……。
誰もが認める、自慢のお父さん、自慢のおじいちゃん、になるにはどうしたら良いのだろうと……。考えれば考えるほど分らなくなります。
それは多分、考えるだけでは決して導けない答えだからだと思っています。それは、世の中は理屈通りにならないし思い通りにもならいことを、嫌というほど実際に体験しているからです。
しかし、誰しもが普遍的にできることがあります。それは努力すること。最後まで諦めないことです。だから、どんな事態に遭遇しても、他人のせいにしないで最後の最後まで諦めずに、泥だらけになりながらでも努力し続けたいと思っています。そうすれば、絶対に認めてもらえると思っているからです。
しかし、認めてもらうことを目的にしていると、認めてもらえないときに不平不満などの愚痴が出ます。愚痴ばかりを言っているお父さんやおじいちゃんは、子どもや孫に嫌われますので、他人の役に立っていると実感できることを目的に努力をしてきました。
そうすると周りから認められなくても、もっと他人の役に立ちたいと考えられるからです。
その結果、望まなくても人様から感謝されていた実体験があります。
自分から自慢話などしなくても、自然と賛嘆の言葉が子どもや孫の耳に入るよう、もっともっと、人様の役に立ちたいと思っております。
こんな私を支えてくれているのが祖母の言葉です。
「絶望と思えるような時ですら必ず救いの道が残されている。最後まで自分を信じて諦めるな」
(連載完)
筆者プロフィール
越光人生(ペンネーム)
自動車の製造会社に勤務するエンジニアであり、毎月のお墓参りを欠かしたことがない生粋のおばあちゃん子です。現在に至るまでいろいろと泥臭い人生を歩んできましたが、諦めが悪いのが私の唯一の取りえです。
前のめりになりながらも最後の最後まで諦めずに、その場その場ででき得る最大限の努力をしてきました。そのおかげか振り返ってみると紆余曲折しながらも随分と良い方向に人生が変わってきたなと感じている49歳です。
行き詰まり感や悲壮感に苛まれ、一歩を踏み出すことをためらっている人たちに、「一念奮起し最後の最後まで努力することを諦めなければ人生は変えられる」実例としまして、何がしかの参考にでもなれば幸いです。
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