豊田佐吉が「発明家」から「技術経営者」に進化、豊田喜一郎も登場:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(9)(1/6 ページ)
トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第9回は、豊田佐吉が「発明家」から「技術経営者」に進化した1909年(明治42年)〜1914年(大正3年)における日本の政治経済の状況や世界のクルマの発展を見ていく。佐吉の長男でありトヨタ自動車工業を立ち上げた豊田喜一郎も登場する。
1.はじめに
連載第4回から、トヨタ自動車の創業以前に時代を巻き戻し、自動力織機の発明によってトヨタ自動車創業に向けた礎を作り上げた豊田佐吉が活躍した時代の政治状況や織機技術の変遷、世界のクルマの発展などを紹介している。
今回は、1905年(明治38年)〜1908年(明治41年)を紹介した連載第8回に続き、1909年(明治42年)〜1914年(大正3年)を見ていこう。この時期から、豊田佐吉の長男であり、現在のトヨタ自動車につながるトヨタ自動車工業を立ち上げた豊田喜一郎(敬称略)が登場する。
2.動力織機への転換期の先駆けとなった豊田式織機
図1に、1909年(明治42年)〜1914年(大正3年)における日本の経済成長率の推移と主な事柄、豊田佐吉の発明を示す。
図2に、1909年(明治42年)〜1914年(大正3年)を中心とした豊田佐吉の発明と、開発した力織機の発展/変遷を示す。
1910年代は、全国的に工場の動力源が蒸気機関やガス発動機などから電力に統一されていく過渡期であった。全国の染織(染色と織布)工場の電化率は、1909年の8.9%(全工場では13.3%)から、1914年には22.4%(同30.1%)へと上昇し、以後電化率は急速に高まっていく。
図3に、その他の織機装置の発明、環状織機/他の機器の発明を含めた、主に1909年(明治42年)〜1925年(大正14年)の豊田佐吉の特許取得状況を示す。
表1に、前回紹介した1905年に設立された豊田式織機の島崎町工場の概要を示す。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 設立年 | 1906年(明治39年)に完成、1907年に豊田式織機株式会社として法人化 |
| 所在地/敷地 | 名古屋市島崎町1番地/2856坪(9400m2) |
| 設備台数 | 小幅動力織機約120台を営業用に運転 武平町工場(80台)、西新町工場(100台)と合わせて計300台が稼働 |
| 主な製品 | ・38年式織機(木鉄混製動力織機) ・39年式織機(改良型) ・軽便織機(簡素化された廉価モデル) |
| 技術的特徴 | ・経糸停止装置の省略による簡素化 ・鯨尺1尺2寸〜1尺3寸の織幅 ・蒸気機関や石油発動機による動力化 |
| 市場展開 | 日本国内、朝鮮半島、中国などに織物を輸出 |
| 表1 島崎町工場の概要(1908年ごろ) | |
豊田式織機の機械工場は、この島崎町工場が中心であり、豊田佐吉が発明した動力織機の製造拠点として、織布試験工場を併設しながら稼働していた。図4は、豊田式織機の機械工場の様子を示す。旋盤が片側3台ずつ横に並べられ、対面で合計6台設置されており、小物の部品加工をしているように見受けられる。動力は天井からの平ベルトとプーリーをクロスさせることによって、工作機械の主軸を駆動させている。明かりは天井から取られ、切削の加工油揮発のために工場内が煙っているのが分かる。
この時期は、手織機から動力織機への転換期であり、豊田式織機はその先駆けとして注目されており、三井物産の支援を受けて株式会社化することで織機の量産体制が整えられた。
表2に、豊田式織機の1909年(明治42年)〜1915年(大正3年)の製造台数を示す。日露戦争後に日本経済は悪化して不況となり、その間は織機の注文も少なく、業績不振のため配当もできない状況となった。1907年(明治40年)の製造台数が2200台と大幅減となっているのはこのためである。後述するが、佐吉はこの業績不振のその責任を取り1910年(明治43年)に同社を離脱する。
| 年次(西暦) | 年次(和暦) | 製造台数(台) | 価格(円) |
|---|---|---|---|
| 1907年4月〜1908年3月 | 自明治40年4月至明治41年3月 | 2,200 | 170,000 |
| 1908年4月〜1909年3月 | 自明治41年4月至明治42年3月 | 3,600 | 300,000 |
| 1909年4月〜1910年3月 | 自明治42年4月至明治43年3月 | 3,800 | 350,000 |
| 1910年4月〜1911年3月 | 自明治43年4月至明治44年3月 | 4,000 | 390,000 |
| 1911年4月〜1912年3月 | 自明治44年4月至明治45年3月 | 4,600 | 360,000 |
| 1912年4月〜1913年3月 | 自明治45年4月至大正2年3月 | 4,600 | 360,000 |
| 1913年4月〜1914年3月 | 自大正2年4月至大正3年3月 | 3,000 | 390,000 |
| 1914年4月〜1915年3月 | 自大正3年4月至大正4年3月 | 3,500 | 450,000 |
| 1915年4月〜1916年3月 | 自大正4年4月至大正5年3月 | 3,500 | 450,000 |
| 1916年4月〜1917年3月 | 自大正5年4月至大正6年3月 | 5,000 | 1,130,000 |
| 1917年4月〜1918年3月 | 自大正6年4月至大正7年3月 | 12,000 | 3,500,000 |
| 1918年4月〜1919年3月 | 自大正7年4月至大正8年3月 | 12,000 | 4,300,000 |
| 1919年4月〜1920年3月 | 自大正8年4月至大正9年3月 | 13,000 | 5,000,000 |
| 1920年4月〜1921年3月 | 自大正9年4月至大正10年3月 | 12,000 | 3,200,000 |
| 1921年4月〜1922年3月 | 自大正10年4月至大正11年3月 | 15,800 | 3,270,000 |
| 1922年4月〜1923年3月 | 自大正11年4月至大正12年3月 | 8,600 | 2,540,000 |
| 1923年4月〜1924年3月 | 自大正12年4月至大正13年3月 | 8,760 | 2,111,000 |
| 1924年4月〜1925年3月 | 自大正13年4月至大正14年3月 | 7,250 | 1,839,000 |
| 1925年4月〜1926年3月 | 自大正14年4月至大正15年3月 | 6,950 | 2,279,000 |
| 1926年4月〜1927年3月 | 自大正15年4月至昭和2年3月 | 4,210 | 1,279,000 |
| 1927年4月〜1928年3月 | 自昭和2年4月至昭和3年3月 | 5,220 | 1,046,000 |
| 1928年4月〜1929年3月 | 自昭和3年4月至昭和4年3月 | 3,650 | 936,000 |
| 1929年4月〜1930年3月 | 自昭和4年4月至昭和5年3月 | 3,750 | 888,000 |
| 表2 豊田式織機の製造台数と価格の推移 出所:国立公文書館所蔵「昭和二年 叙勲 巻五」「昭和五年 叙位 巻三十二」 | |||
1908年(明治41年)の早々には「豊田式鉄製織機K式」の設計を完了し、試験運転を行っていたが、その試験成績を十分に検討できないうちに、中国の広東の九江織布社から30台の注文があった。しかし、検証できていないためこれを固辞したものの、再三再四の要望に負けて納入せざるを得なくなったことがあった。これは、佐吉の信念に反すものであり、織機の営業試験工場の必要性を痛感していた。そしてついに、佐吉は自分個人で営業試作試験を行うべく、1909年(明治42年)に豊田織布菊井工場を発足させるに至る。
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