技術開発に専念した豊田佐吉の発明の数々、ついに英米の織機技術に肩を並べる:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(8)(1/6 ページ)
トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第8回は、新たな会社組織として豊田式織機を設立し技術開発に専念した豊田佐吉が生み出した発明の数々や織機を中心に、1905年(明治38年)〜1908年(明治41年)における日本の政治経済の状況や世界のクルマの発展を見ていく。
1.はじめに
連載第4回から、トヨタ自動車の創業以前に時代を巻き戻し、自動力織機の発明によってトヨタ自動車創業に向けた礎を作り上げた豊田佐吉が活躍した時代の政治状況や織機技術の変遷、世界のクルマの発展などを紹介している。
今回は、1900年(明治33年)〜1904年(明治37年)を紹介した連載第7回に続き、1905年(明治38年)〜1908年(明治41年)を見ていこう。
2.日露戦争の終結から日露戦後経営へ
図1に、1905年(明治38年)〜1908年(明治41年)における日本の経済成長率の推移と主な事柄、豊田佐吉の発明を示す。
国民への大増税と内外の国債に依存した日露戦争※1)の戦費は当時の金額で約20億円であった(当時の日本のGDPは約30億円)。その戦費調達のために巨額な外債累積と無賠償講和によって正貨危機が大問題となり、図1からも分かるように日本経済は不況になった。豊田佐吉の会社も例外ではなく大幅な業績不振となった。
※1)日露戦争は、1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)に、満州(中国東北部)/朝鮮の支配権を巡って日本とロシアの間で行われた戦争。日本は旅順攻撃、奉天の会戦、日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が財政/軍事上で限界に達していた。一方、ロシアも相続く敗退やロシア国内の革命勃発などによって戦争終結を望むようになり、1905年(明治38年)5月に米国大統領のT・ルーズベルトのあっせんによりポーツマスで講和条約を締結した。日露戦争については司馬遼太郎の「坂の上の雲」が参考になるだろう。
1905年1月旅順開城、同年3月の奉天会戦は日露両軍ともに最大限の兵力を結集しての激闘となった。軍事力、国力上、戦費負担は限界を超え、日本側はこれ以上の戦争継続は不可能であった。この間、連合艦隊は旅順港口を封鎖してロシア第一艦隊の活動を抑制した。そしてロシアは第2/第3艦隊のバルチック艦隊を東航させた。この決戦に備える必要から旅順の早期占領を要請し、乃木希典を司令者とする第3軍の旅順攻略が1904年8月下旬に始まり、3度の総攻撃で史上最多の6万人近い日本兵が死傷したものの旅順は陥落した。その後、1905年5月の対馬海峡沖での日本海海戦で東郷平八郎が率いる連合艦隊は圧倒的な勝利を収め、戦局全体の大勢を決めた。
日露戦争は日露両国に大きな犠牲を伴う戦争だったが、日本勝利という形での講和によって日本の朝鮮半島支配が英米両国を含めて国際的な承認を受けた。これ以後、日韓保護条約に基づき、朝鮮の植民地化が推し進められる。
日露戦争後の軍事/外交/経済政策を中心とする最高の国策方針を日露戦後経営というが、西園寺公望内閣、桂太郎内閣による日露戦後経営の基本的な内容は、以下の5つに要約できる。
(1)軍備拡張
日露戦後経営の基軸の背景には、米国とロシアの対立、植民地である朝鮮と満州の民族抵抗抑圧のための軍備拡張があった。1907年(明治40年)〜1912年(大正元年)における軍備拡張費は巨額の約6.1億円(陸軍1.8億円、海軍約4.3億円)。これにより陸軍の師団編成は、19師団、平時現員約25万人、戦時兵員約200万人に大増員された。海軍は、八八艦隊(戦艦8、巡洋戦艦8)の建艦計画を策定。この軍備拡張と植民地支配の強化は、日露戦争後の大きな国家財政負担となった。
この軍備拡張は国民生活に深刻な負担を強いた。特に農村は、大量の基幹労働力を兵士として徴兵されたため大きな打撃を受けた。この農村の動揺を鎮めつつ、他方で日本軍国主義を支える良民良兵を確保するために国民の軍事的組織化が急速に進んだ。
- 在郷軍人会の設立
- 青年団の奨励と官製化
- 小学校義務教育の6年制への延長および地方改良運動の推進
(2)満州、朝鮮、台湾、樺太などの植民地経営
(3)財政/外債整理
(4)国力の再充実のための産業基盤の育成
- 鉄道国有化
- 八幡製鉄所の拡張
- 電信電話の拡張
- 海運/造船の奨励
- 治水事業
- 北海道開拓
(5)天皇制国家の下へ国民を政治的/イデオロギー的に統合
- 地方改良運動
- 戊申詔書
- 在郷軍人会
- 教育改革など
を中心とする
日露戦後の日本は、日本帝国主義を推し進め東アジア諸地域や欧米列強から侵略的と疑いの目で見られるようになる。
その一方で、日露戦争後の日本の外国貿易は近代紡績業の確立により綿関連の繊維製品を中心とした輸出が急増して雑貨類の輸出も伸び、さらに原材料の輸入急増が顕著となった。市場構成はアジアの比重が強まり、戦前に20〜30%だった輸出率が1907年(明治40年)には40%台に伸び、さらに大正期に入ると50%に達した。
図2に、豊田佐吉が製作した1896年(明治29年)〜1908年(明治41年)の自動織機の変遷を示す。
前回の連載第7回では、「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」の完成に向けて重要な3つの発明を行った1900年(明治33年)〜1905年(明治38年)に焦点を当てたが、今回は1905年(明治38年)〜1908年(明治41年)を見ていく。
1896年(明治29)年の「豊田式汽力織機」の次に発明されたのが、1905年(明治38年)の「豊田式38年式織機」である。続いて1906年(明治39年)の「豊田式39年式木鉄混製動力織機」、1907年(明治40年)「豊田式軽便織機」と同年製の鉄製自動織機「豊田式鉄製自動織機(T式)」と豊田佐吉の発明は進化していく。各織機の開発に伴い、新たな特許取得に向けた発明を行い、各織機に実装することでその特許を実現し、製品化が進んでい。
前回の連載第7回では、豊田佐吉による特許項目として、緯(よこ)糸補給装置の発明、緯糸補給装置に関連する発明、経(たて)糸切断停止装置の発明、経糸送出装置の発明について紹介した。図3では、これらにその他の織機装置の発明、環状織機/他の機器の発明を加えた、豊田佐吉が1903年(明治36年)〜1907年(明治40年)に取得した特許を示している。
さて、日本における自動織機の研究は、1898年(明治31年)に大阪紡績会社の技術者である山延武夫が米国から帰国し、ドレーパー※2)の自動織機を持ち帰ったときに始まったといえる。1900年(明治33年)、日本の主要な紡績会社は自動織機を研究するために技術専門家のグループを米国に派遣した。
※2)米国の紡織機製造会社のドレーパーは1894年、英国生まれのジェームズ・ヘンリー・ノースロップが開発に成功したいわゆるノースロップ自動織機の受注を開始し、翌1895年に出荷を開始した。その後自動織機は米国で急速に普及し、総織機台数に占めるドレーパー製自動織機の割合は、1904年に20.1%、1909年に30%、1914年に44.5%と急激に増加した。
連載第6回で紹介したドレーパーの自動織機は、ジェームズ・ヘンリー・ノースロップによって発明され、1895年(明治28年)にノースロップの雇用企業であるドレーパーによって商業的に導入された。このドレーパー自動織機(発明者の名前を取ってノースロップ自動織機としても知られている)の発明には、多くの補完的発明と、米国のゼネラル・エレクトリック(GE)やウェスティングハウスといった特許取得率が最も高い企業に次ぐ規模の織機産業の研究が関与していた。
最も基本的な2つの発明は、ドレーパー自動織機の緯糸補充機構と経糸停止運動機構である。ドレーパー自動織機の緯糸補充機構は、杼(ひ、シャットル)内に糸が充填(じゅうてん)されたボビンを押し込み、糸の供給が尽きたときに空のボビンを押し出すという操作を織機を停止することなく行う。ボビンは杼と織機の操作を停止したり、遅らせたりすることなく挿入されるため、ドレーパー自動織機は「ボビン交換自動織機」と呼ばれた。緯糸供給の交換という時間のかかる作業が機械化されたことで、織り手(主に女性工員)がより多くの織機を操作できるようになった。もう1つの重要な補完的発明が経糸停止運動機構であり、これは女性工員の「精神的な不安」を軽減するために発明されたが、経糸の破損による織布の不良を防ぐためのものでもあった。
1900年(明治33年)、大阪紡績会社、カリコ※3) フィニッシング&ウィービング、三重紡績会社は、既に自社の工場にドレーパー織機を導入していた。日本の工場では、ドレーパー(米国)とプラット・ブラザーズ(英国)※4)の自動織機の両方を試験したが、自動織機として稼働できる技術者、作業員がいないため、自動装置を取り外した後に単純な動力織機として使用するのが一般的だった。上記の3社は自動織機を操作する初期の試みで失敗したが、その後合併して6大紡績会社の一つである東洋紡績を形成する。
※3)カリコ(Calico)とは、平織りコットン地の一種。日本の金巾(かなきん)の俗称である。カリコ、キャリコと呼び、本来インドのカリカットなどから輸入される綿織物の総称。
※4)プラット・ブラザーズ(Platt Brothers & Co., Ltd.)は、イングランド北西部オールダムのワーネスに拠点を置く英国の企業。同社は繊維機械の製造、製鉄鋳造、炭鉱経営を行っていた。1922年、同社は世界最大の繊維機械メーカーとなり、1929年には1万2000人以上の従業員を雇用していた。オールダムでの事業は1982年に工場閉鎖により終了した。
佐吉は、1902年(明治35年)にこれらの最初の自動織機が日本に到着した後、木管のみを交換する管替(コップチェンジ、cop change)式ノースロップ自動織機の模倣や、さらなる開発を目指すのではなく、杼交換(シャットルチェンジ、shuttle change)式の自動杼交換織機の開発を追求し、緯糸が尽きたときに自動的に交換できる織機の開発を試みた。後述するが1905年(明治38年)、佐吉は自身の発明に基づいて大阪の木本鉄工所に試作させた試作豊田式自動織機を、ドレーパーとプラット・ブラザーズ、キップ・ベーカー(英国)の自動織機と比較する性能試験を行っている。
ちなみに、日本に輸入された上記以外の外国製自動織機には、スタッフォード、ヘンリー・バイヤー、ルチ、ハートマンなどがあった。英国のプラット・ブラザーズと日本の豊田佐吉の関わりについては次回以降で取り上げる予定だ。
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