技術開発に専念した豊田佐吉の発明の数々、ついに英米の織機技術に肩を並べる:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(8)(2/6 ページ)
トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第8回は、新たな会社組織として豊田式織機を設立し技術開発に専念した豊田佐吉が生み出した発明の数々や織機を中心に、1905年(明治38年)〜1908年(明治41年)における日本の政治経済の状況や世界のクルマの発展を見ていく。
3.「豊田式38年式織機」の開発
1905年(明治38年)、日本海海戦※5)。ポーツマス条約※6)に署名。賠償金が取れなかったため、日比谷焼打事件※7)が発生。第二次日韓協約。韓国における日本の優越権、旅順と大連の租借権、長春以南の鉄道、北緯50度以南の樺太(サハリン)の譲渡などが認められ、領土を大幅に広げ、欧州をまねた帝国主義が日本にも確立される。日露戦争が9月に終わり不況が始まる。
※5)日本海海戦は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27〜28日に大日本帝国海軍の連合艦隊(東郷平八郎司令長官:旗艦「三笠」はじめ戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、防護巡洋艦11隻、装甲海防艦3隻、仮装巡洋艦6隻、駆逐艦23隻および水雷艇43隻など)と、ロシア帝国海軍のバルチック艦隊(ロジェストベンスキー司令長官)が極東へ送った第2/第3太平洋艦隊(旗艦「スワロフ」をはじめ戦艦8隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻、装甲海防艦3隻、仮装巡洋艦5隻、駆逐艦9隻および工作船、病院船、運送船、総数50隻、合計排水量16万200トン)によって日本海で行われた海戦。一言であえて要約すれば、日本の連合艦隊は、開戦後ほぼ30分の猛射によって大局を制したといえる。天祐とT字戦法による旗艦への一点集中攻撃で決着。バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4830人、捕虜6106人であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督を含む。日本の連合艦隊の損失は水雷艇3隻の沈没のみで、戦死117人、戦傷583人と軽微だった。有史上の大艦隊同士の艦隊決戦としては、史上まれに見る一方的な大勝利となった。
※6)ポーツマス条約(Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty)は、米国大統領のセオドア・ルーズベルトのあっせんによって、1905年(明治38年)9月5日に日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約、米国のポーツマスで調印されたことからポーツマス条約ともいう。奉天の会戦以来、日本軍(特に陸軍)にはこれ以上の大作戦を行う力がなく、同年4月に講和条約大綱を閣議決定し、日本海海戦の勝利を機に、6月に米大統領のT・ルーズベルトに講和あっせんを依頼した。8月10日から講和会議が開催され、日本は外相の小村寿太郎、ロシアはウィッテが全権となった。樺太割譲と償金問題で難航したが、日本は償金と北樺太を放棄し妥協が成立。内容は韓国における日本の政治、軍事、経済上の優越権および保護権の承認、日露両国軍の撤退期限、遼東半島南部の租借権と長春以南の東清鉄道の清国の同意を得ての日本への譲渡、南樺太の割譲、沿海州における日本人漁業権の承認など。調印の日、無償金講和に対し講和反対国民大会が東京の日比谷で開かれ、焼打事件が勃発し全国に波及した。
※7)日比谷焼打事件は、1905年(明治38年)9月5日、日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)に不満を持つ国民の大会をきっかけに発生した日本初の国民による暴動事件。主な原因は、(1)賠償金がなかったこと(2)政府がこの講和内容を隠蔽(いんぺい)したこと(3)これ以上戦争継続したら日本が負けるということを国民が知らなかったことにある。同年7月に講和問題同志連合会が結成され、講和への全国的な強硬な反対運動が起こり、調印の日の9月5日に東京の日比谷公園で同志連合会主催の国民大会が講和条約の破棄を決議し、大会参加者の一部は街頭に出て、各所で警官隊と衝突、政府系新聞を襲撃し、内務大臣官邸や警察署、交番、電車、教会などを焼き打ちした。政府は同月6日に東京市と府下5郡に戒厳令を敷き、政府批判の新聞/雑誌を発禁や停刊処分とした。繰り返すが、この事件は日本の民衆による最初の暴動とされ、昭和大戦の敗戦の大きな要因にもなったとされる。
1905年(明治38年)1月19日、豊田佐吉は、連載第7回で紹介した「豊田管換式自動織機」を発明し、特許8320号「自動管換装置」の特許を取得した。この装置は、1924年(大正13年)に改良され特許66012号となる。ここにおいていよいよ、ノースロップ自動織機で知られるジェームズ・ヘンリー・ノースロップの技術レベルに達した感がある。
また、新たな工場として島崎町工場(名古屋市西区島崎町1番地)を開設した。その敷地面積は、最初の工場である武平町工場(名古屋市武平町3丁目15番地)の400坪(約1300m2)だったの対して、2856坪(約9400m2)と7倍の規模に広がった。
同年、豊田商会は「豊田式38年式織機」を発売する。この豊田式38年式織機は、自動織機ではなく、いわゆる普通織機と呼ばれる動力織機であったものの、不具合の発生を防止するためのさまざまな装置が採用された。
図4に豊田式38年式織機の外観と「三拾八年式織機説明書」(編集者豊田佐吉)を示す。
「トヨタ自動車75年史」から引用するが、豊田商会が1905年9月に発行した三拾八年式織機説明書には、豊田式38年式織機の特徴が次のように説明されている。
「本機ハ多額ノ資金ヲ要セズ家族的作業ニ適スル様製作シタルモノニシテ其特点大要左ノ如シ
一 本機ハ木綿製織ヲ目的トシテ製作シタルモノニシテ手織ニテ利益ナキ不況ノ時ニ際シテモ尚能ク弐参割ノ利益ヲ挙グル事ヲ得
一 本機ニハ簡便ニシテ而モ精功ナル経糸停止装置ヲ備フルヲ以テ実ニ左ノ特効ヲ有ス
イ.経糸切断スレバ直チニ機械ハ自働的ニ運転ヲ停止スル事
ロ.経糸ノ切断ヲ見張ルノ必要ナキヲ以テ一人ニテ能ク多数ノ台数ヲ取扱フ事ヲ得ル事
ハ.木綿ニ疵ヲ生ズルノ憂ナシ従テ製品ハ他ヨリ高価ニ売行ク事
ニ.疵戻キヲナスノ必要ナク従テ少シモ緯糸ノ廃失ナキ事
ホ.綜絖ニ糸ヲ通シ易キ事
一 本機ニハ経糸送出装置牽張調整装置及口開装置等ニ一新機軸ヲ開キタルヲ以テ左ノ特効ヲ有ス
イ.糸節又ハ玉等ノ外経糸ヲ切断スル事ナキ事
ロ.経糸切断稀ナルト管ノ大ナルトニヨリ停止時間少ク従テ機上ゲ反数ヲ増加スル事
ハ.経糸巻付ケノ多少ニ係ラズ常ニ経糸張力ヲ自働調整スル事
ニ.厚地木綿ヲ織ルモ此ガ為ニ経糸ノ切断スル事ナキ事
ホ.(ハ)ノ作用ニヨリ織「ムラ」ナク地合ハ特ニ宜敷ク且ツ巾尺及丈尺ヲ一定ナラシメ両耳ハ恰モ断チ切リタルガ如キ事
一 斬新ナル緯糸停止装置ヲ備ヘ緯糸ノ切断又ハ無クナリタル時ハ機械ハ自働的ニ運転ヲ迅速ニ休止ス大略右ノ如キ作用ヲ有スルヲ以テ織工ノ視力ト手数トヲ省ク事著敷而モ一人ニテ多数ノ織機ヲ取扱得ルノミナラズ各機ノ運転時間ヲ増加シ依テ得ル綿布ノ量ヲ増ス事ヲ得ベシ
豊田式38年式織機の特徴は以下の3点にまとめられる。
(1)ヘルド綜絖探知機械式経糸切断自動停止装置の採用
連載第7回で紹介した、1903年(明治36)年11月4日に取得した特許6787号「経糸送出装置牽張調整装置」、正式名称「ヘルド綜絖(そうこう)探知機械式経糸切断自動停止装置」の採用により、経糸の張力を一定の強さに自動的に調節して送り出すことができた。その効果としては、たて糸の切断が少なくなること、織機の停止時間が減少することなどがあげられる。商品価値の面でも、織りムラがなくて風合が良く、均一な品質の織物が得られた。
(2)「経糸停止装置」の導入
経糸が切断すると直ちに織機が自動的に停止する「経糸停止装置」を導入した。これにより、機械を見張る必要がなくなり、1人で多数の織機を運転することが可能になった。また、糸が抜けたり絡まったりする品質不良も減少し、織物にキズが生じる恐れがなくなった。
(3)「緯糸停止装置」の導入
「緯糸停止装置」を採用し、緯糸が切断するかなくなったときに直ちに織機が停止するようにした。上記の(2)と同様、機械の見張りを不要にする機能である。
(2)と(3)は、異常が発生した場合、織機を自動停止して、品質不良や手直しによる損失などを防ぐ発想である。連載第1回で述べたように、豊田佐吉の設計思想は、「自働化」の起源として生まれ、そして現在の「トヨタ生産方式」に脈々と生きつづけている。
さて、同じく1905年(明治38年)、1896年(明治29年)の豊田佐吉による豊田式汽力織機の発明に注目していた大手紡績会社の鐘淵紡積は、佐吉の発明を用いて大阪の木本鉄工所に試作させた試作自動織機について、輸入した英国製キップ・ベーカー式自動織機(経糸停止運動機能を持つ織機)、米国製ドレーパー式普通織機、英国製プラット・ブラザーズ式普通織機との性能比較試験を兵庫工場で1年にわたって実施した。
この性能比較試験では、木本鉄工所による試作自動織機50台、キップ・ベーカー式自動織機6台、ドレーパー式普通織機10台、プラット・ブラザーズ式普通織機44台が用いられた。そして1年間の試用の後、全ての自動織機が操作において「不満足」があるという結果が出た。
ただし、成績としてはプラット・ブラザーズ式が最も良く、豊田式の試作自動織機は能率と製品品質の面で性能が劣っていた。その原因を豊田佐吉は自身で調査し、主に次に挙げる4つの結論を得た(以下はトヨタ自動車50年史「創造かぎりなく」からの引用である)。
(1)試作させた鉄工所の工作技術が未熟であった
(2)広幅鉄製織機を大量に生産する技術水準にないこと
(3)織工が自動織機に不慣れであった
(4)使用した綿糸が粗悪で自動織機には適さなかった
ここでの最大の原因は、試作の織機の製作と試験を他人任せにしたことにあったと、佐吉は反省をし、発明品を世に送り出すにあたっての貴重な教訓とした。
佐吉が得た教訓とは、第一に、自動織機を日本市場に導入させようとする中で直面する外国企業状況と織機自体の競争の程度を完全に認識した。第二に、それ以降、佐吉は全ての機械的革新を開発する際に工場条件下でのテストを監督した。
実用試験を十分に行い、完全なものにしてから製品を市場に出す、という考え方が、佐吉の一生を通じてつらぬかれることになった。
客観的に見れば、次の2点に要約されよう。
(1)広幅鉄製織機を大量に生産する技術水準にないこと
(2)機械剛性上豊田式は木鉄混製織機であること
豊田商会の自動織機を用いて小幅※8)の布を生産する経験を振り返る中で、三井物産名古屋支店の岡野定治は、織機製造の質の低さと織機のメカニズムの複雑さから生じる問題を指摘した。
「この機械の製造に使用される技術は進んでいないため、機械は本来のように動作しません……。それは簡単な機械ではなく、作業者に多くの問題を与えます。さらに、使用するために必要なスキルを習得するには長い時間がかかります」
※8)小幅とは、幅の狭い織物のこと。小幅織物の略で、広幅の対語。織物の両耳間の幅が約36cm(鯨尺で9寸5分)のもの、つまり和服地の並幅をさす。この幅であると、力織機のフレームも木製が可能だが、綿布が輸出されるようになると、この小幅では市場の需要に合致し得ないため、輸出用の大尺ものである広幅で織機は普及していった。
佐吉は、競争力のある自動織機を開発するためには、長期の開発期間が必要であることを認識した。そのため、継続的な自動織機の実験に必要な投資資金を調達することに注力した。そして、動力織機の開発、製造、販売に再び焦点を当てた。
1905年(明治38年)に佐吉が発明した豊田式38年式織機(明治38年にちなんで名付けられた)は、これらの教訓や反省を基に開発された高性能の鉄製と木製の小幅力織機である。耐久性が向上したことに加え、1台当たり1日85ヤード(77.724m)という性能を実現した。ただし、木鉄混製となった豊田式38年式織機は、これまでの全木製フレームモデルに比べて価格は2倍になった。しかし、1人の織工が操作できる織機の台数は、これまでの2台または3台から、豊田式38年式織機では6台または7台に増えた。
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