世界初の無停止杼換式自動織機を構成する豊田佐吉の3つの発明:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(7)(3/5 ページ)
トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第7回は、豊田佐吉による世界初の無停止杼換式自動織機を構成する3つの発明を中心に、1900年(明治33年)〜1904年(明治9年)における日本の政治経済の状況や世界のクルマの発展を見ていく。
5.自動杼換装置の発明
1902年(明治35年)、ロシアの南下政策と衝突していた英国との間で日英同盟が締結される。第7回衆議院議員総選挙。米国人ヘンリー・マーティン・リーランド※7)がキャデラックを設立し、初の市販車「モデルA」※8)を製作した(図5)。
※7)ヘンリー・マーティン・リーランド(Henry Martyn Leland、1843〜1932年)は、米国バーモント州で生まれた機械工、発明家、技術者。自動車起業家でもあり、米国の二大高級車ブランドであるキャデラックとリンカーンを創業した。リーランドは1902年、自動車王ヘンリー・フォードが設立したヘンリー・フォード・カンパニー(現在のフォードとは別会社)の管財人に就任。この会社をキャデラック・モーター・カンパニーに改組した。1917年にリンカーン・モーター・カンパニーを設立。1909年7月29日にキャデラックをゼネラル・モーターズ(GM)に450万ドルで売却。1922年、リンカーン・モーター・カンパニーは破産し、ヘンリー・フォードのフォード・モーター・カンパニーに800万ドルで売却された。
※8)キャデラック・モデルA(Cadillac Model A)は、1902年に設立されたキャデラックの最初の自動車。1899年にヘンリー・フォードはヘンリー・フォード・カンパニーを設立したが、他の経営陣との対立で会社を去り、1902年、リーランド&フォークナー社の社長であったヘンリー・マーティン・リーランドに請われて工場長の後任となった。モデルAは、ヘンリー・フォードが基本設計まで行い、後任のヘンリー・リーランドが完成させた。従って、初期型のフォードとはアピアランス、メカニズムともによく似ているとされる。鋼鉄製のフレームはリーランド自身の会社がオールズモビル用に生産していた1600cc水冷単気筒ユニットを搭載、遊星ギアと前進2速+後退のトランスミッションが組み合わされたFR(後輪駆動)車である。キャデラックは1909年からGM傘下となった。YouTube映像で走行する様子を確認できる。
豊田佐吉は1902年、井桁(いげた)商会の技師長を辞任、独立して、豊田商会(名古屋市東区武平町)を設立する。無停止杼換式豊田自動織機(G型)の発明に向けた基盤は着々と整備されつつあった。
1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙。専門学校令公布。
同年6月、米国のフォード※9)が設立された(図7)。フォードT型は初めての自社工場であるピケットロード工場(図7(a))で生産され、フル生産開始の1909年は1年間で1万8千台もの生産台数を記録した。
また、ノルウェー人エギディアス・エリングが遠心式圧縮機を使った11馬力を生成できる世界初の実動するガスタービンを製作。ライト兄弟による世界初の動力飛行の成功。※10)
※9)フォードは、現在フォード・モーター・カンパニー(Ford Motor Company)といい、ヘンリー・フォードが1903年6月16日に米国のミシガン州ランシングに設立した自動車メーカー。この会社は、ヘンリー・フォードが2度自動車会社の起業に失敗して、3度目に12人の投資家から現金2万8千ドルを集めて再起を期した会社である。設立早々発売した2気筒水冷エンジン、出力8馬力、最高速度50kmのフォードA型(定価850ドル)はよく売れ、2000ドルで大型のB型、C型、F型、K型を発売した。1908年には有名なフォードT型(T型フォード)を発売。ヘンリー・フォードが長年抱いていた大量生産による大衆車を実現するため、例えば、従来ばらつきのあった部品をマイクロゲージを基準として規格化し、より均質化し、部品互換性の確保を成功して、部品の簡素化/内製化、流れ作業による工員の間での分業化を実現した。
フォード・システムと呼ばれるコンベヤーを利用した大量生産管理システムは1913年から本格実験に入り、1914年からシャシーの組み立てに採用された。これにより、例えば車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年間生産台数は25万台を超え、1920年までに100万台を突破した。最終的にフォードT型は1908年から27年かけて1500万7033台が生産された。一方、フォードの米国の乗用車登録台数に占める割合も1924年の50.2%をピークに40%台が続いた。
※10)ライト兄弟による初の動力飛行は、1903年12月17日に米国のノースカロライナ州キティーホークで行われた。弟のオービルが操縦する「フライヤー1号」で、12秒間、36mの距離を飛行した。
豊田佐吉は1903年、「緯糸補給装置」関係の発明として、特許取得6787号「押上式自動杼換装置」、翌年の1904年(明治37年)には特許第7433号「押上式自動杼換装置(改良)」、また同じく1904年に表1には記載されていない(表2には記載)特許第7676号「織機」、第8320号「自動管換装置」を発明した(図8)。
ここで、連載第4回でも紹介したが杼について再度説明しておきたい(図9)。緯糸を挿入する道具を杼(シャットル)と呼ぶ。この杼の中の木管(管、緯管、糸巻き、ボビン、コップ)に巻かれた糸が無くなる、もしくは無くなる寸前に、機械の運転を止めることなく、緯糸が入った新しい杼に自動的に取り換える装置を自動杼換装置という。
豊田佐吉は1903年11月に取得した特許番号6768号の中で「自動杼替装置」を発明する。この自動杼替装置は初期の豊田式の動力織機で使われ、緯糸がなくなるたびに運転を止めて、糸を補充していたものを運転を止めずに自動的に補充/交換できるようにした。この自動杼替装置に加え、先述したアンクル式経糸送出装置、そして後述する「経糸切断自働停止装置」の3つの発明を組み合わせによって、世界初の無停止杼換式自動織機である豊田式鉄製自動織機(T式)が開発された。
豊田式鉄製自動織機(T式)は、1903〜1907年の間に480余台が製作され、中国にも10台を輸出し、日本製自動織機の最初の海外進出を実現した。また、英国、米国など外国特許も6カ国で取得した。トヨタ産業技術記念館に展示されている豊田式鉄製自動織機(T式)は、当時のカタログ写真と特許明細書を基に、考証、設計し、複製したものである。
自動杼換装置の仕組み
ここからは、1903年に発明された「押上式(基本型)自動杼換装置」の仕組みを見ていこう(図10)。
押上式(基本型)自動杼換装置では、緯糸がなくなる寸前に、杼が押し上げられて自動的に交換する。日本で最初に発明された自動杼換装置(自動的に杼を交換する装置)であり、杼箱の下部に設けた杼溜(ひだまり)部に予備の杼10丁を積み重ねておき、緯糸がなくなる寸前に新しい杼を自動的に押し上げて、旧杼が新杼と交換される仕組みである。
図10(a)は自動杼替装置の全体ビュー、図10(b)は自動杼替装置の杼と杼箱面断面図である。
図10(b)に示すように、(1)杼の中の(2)木管に巻かれた緯糸の残量を、(3)糸押さえレバーの変位で検知し、(1)杼が(4)杼箱に達すると、(3)糸押さえレバーの変位量が(5)杼箱側レバーを介して、(6)規制レバーに伝えられる。
図10(c)は、自動杼替装置において緯糸の残量が多い時の状態である。(6)規制レバーおよび(7)杼換誘導レバーが杼箱側から離れている。従って、杼換誘導レバーが上昇しても、(8)予備杼ブレーキを解除する(9)アンクルを突き上げないため、予備杼が上昇することはない。
図10(d)は、緯糸がなくなる寸前の状態である。このときは、(7)杼換誘導レバーが抒箱側に近づき、上昇時に(9)アンクルを突き上げ、(8)予備杼ブレーキを解除する。(10)予備杼が(11)旧杼の位置まで押上げられると、(11)旧杼はその上方まで押上げられ、旧杼は新杼と交換する。
図10(e)は、旧抒が杼箱を後退させるタイミングでの状態を示す。(11)旧抒は杼箱の後退時に(12)アームによって、織機手前側にかき落とされる。
図10(f)は、トヨタ産業技術記念館にある「押上式自動杼換装置」の手動模型である。
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