不況に負けず! 発展し続ける岡山の3つの中小企業:大学教員は見た! ニッポンの中小企業事情(1)(2/2 ページ)
今回は経営環境の変化に柔軟に対応している岡山県内の中小企業を紹介。「顧客から誘われた」「経営書を読んでいたら不安になった」など奮い立ったきっかけはさまざま。
3.もし加工屋さんがドラッカーを読んだら――中原製作所
航空機の技術者だった先代社長が1948年に岡山市に創業したのが中原製作所(従業員数60人、岡山市)の始まりです。創業当初は大手繊維企業と取引をしていたのですが、徐々に近隣企業とも取引を開始し、鉄道に次いで、印刷機の部品も手掛けるようになります。
そして、つい数年前まで、印刷機械のロール加工の売り上げに依存していました。実際、同社の売り上げのほぼ全てが、印刷機械の部品関連という状況だったといいます。
こうした経営体制に早くから危機感を抱いたのが、同社の現専務 中原健一氏でした。
中原氏は小学生の頃から実家の製造現場でアルバイトをしながらモノづくりに親んできました。その後、防衛大学に入学するものの、“モノづくりへの思い”もあり、中途で退学して、1980年代初めに中原製作所に入社したのです。
その当時、同社の売り上げの多くが、主力顧客1社に依存していました。中原氏は「技術営業」を標ぼうし、国内のさまざまな印刷機械企業と取引を拡大していきました。
ところが1995年のある日、同氏は大学時代に読んだ経営学者のピーター・ドラッカー(Peter F. Drucker)氏の経営書を何気なく手に取り、熟読した後に、このような考えに至ったのです。
「印刷機械企業とだけ取引していて、本当によいのか?」
中原氏は「将来、何かあったときのために、今から種をまいておかなければいけない」と考え、自社を一度、離れることを決断します。自社のすぐ近くの廃業した工場を買い上げて改造し、中原製作所にもない新規の工作機械も導入して、“中原製作所のミニチュア工場”ともいうべき別会社・ナカハラを設立したのです。
先代社長から、
「中原製作所の人材を引き抜かない」
「中原製作所の顧客とは取引をしない」
という条件を突き付けられた上での独立でした。
中原氏はそこで生産管理システム作りを手掛けるようになります。以前、あるソフトウェア会社に自社の生産管理システムの構築を発注したところ、期待に全く満たないものを納品されたことがありました。
この経験から、中原専務は、
「現場の視点・ニーズを満たした生産管理システムを作ろう!」
と思い立ったのです。加工を手掛ける方々が受け入れやすいように、『加工屋さんが作った生産管理ソフト 「加工屋けんちゃん」』とネーミングしたとのことです。
このシステムが成功し、当時、製造業が拡大していた九州の中小企業などからの受注が相次ぐようになりました。そうしたつながりの中から、さまざまな企業とのネットワークを作り出していくのです。
その後、中原専務は自社に半分戻る形で、専務職を兼任することになります。それまで、先代社長は意図して、専務や弟である現社長より、年上の従業員を雇用していませんでした。そのため、専務・社長が自身の経験を最大限、発揮できる素地があったのです。
2008年頃、同社も経営危機に直面します。売り上げを依存していた印刷機械業界は、書籍の電子化が進展し、国内市場が縮小していました。そこにリーマンショックが重なる形で、急激な海外生産展開を志向したのです。このとき、中原専務はナカハラで培ったネットワークを活用し、タイヤの製造装置やフィルム製造装置といった新たな受注を獲得していったのです。実際、売り上げに占める印刷機械の割合は数年で半分近くまで落ちています。
なぜ、このようなことが可能だったのでしょうか。「印刷機械用のロールを精密に加工する技術の汎用性を高め、他業種に転用した」というのがその理由の1つです。
「印刷機械では、印刷物を巻き付ける」「フィルム製造装置では、フィルムを巻き付けて加工する」ために「ロールが必要」で、それぞれの形状はおおよそ似通ったものです。ただし、面粗度や真円度といったロール精度は格段に異なり、より精緻な品質管理が必要になってきます。また、顧客によって異なる検査票にも対応しなければいけません。
そのため、顧客から知識・ノウハウを獲得しつつ、品質管理部門を設立。また、顧客がいつでも自社の発注案件を確認できる生産管理システムを自社内に導入していったのです。
同社は「まるで家庭用ゲーム機のように、取扱説明書がなくてもできるモノづくり」を掲げ、製造現場の見える化・システム化を進めています。その一方で、「ワークの置き方」「治具の取り付け方」といった部分では、「職人の手≒技能」を介在させています。
中原製作所は2008年に幾つかの企業と共同出資して、中国の現地法人も設立しています。もともと、先代社長の方針で、中国のいわゆる残留邦人の方々の子息などを積極的に雇用していたという歴史がありました。こうした方々が主軸となることで、中国における生産展開を円滑も実現したことも付け加えておきます。
4.岡山県の中小企業の“今”
以上、岡山県の中小企業の“今”を報告しました。彼らは経営環境の変化に柔軟に対応していますが、そのきっかけは、「顧客からの誘い」や「本を読んだ際の漠たる不安」によるごく小さな気付きです。そうした気付きを具体的なものとして捉え、自社の方向性につなげていく、そこに中小企業の“新たな姿”が現れているのではないでしょうか。
筆者はこうした変化が、今、日本各地の中小企業で生じていると実感しています。次回以降も、さまざまな地域を取り上げながら、その姿を報告していきます。
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