若手エンジニアたった1人のメーカー経営(前編):“理想の製品づくり”に挑む(2/2 ページ)
若手でマルチなエンジニアが、たった1人きりでデザイン家電開発に取り組み、世界的デザイン賞も受賞。今回はその開発の軌跡を紹介する。
短い年数に、詰まった経験
「工業デザインは学生のころからずっと好きで、専門誌を読んだり、コンテストに応募したりしていました。大学院生のときには、ダイソンデザインアワード(James Dyson Award:2006年度)など幾つか受賞しました」(八木氏)。
「家電を“ 自分で”作るのが、ずっと夢だった」と語る八木氏。家“電”というからには、まず電子工学の知識は必須だった。さらにそこには、“ 格好いい筐体”も欠かせない。工業デザインの知識だけではなく、回路設計や機械設計もできなければならない。
八木氏は大学、大学院と電子工学を専攻。電気電子の世界は「どちらかと言えば、苦手だった」と同氏は言う。しかしこれも、自分で家電を作るため。きちんとした教育機関で学習できるなら、その苦手意識を克服できるかもしれないと、電子工学の専攻を決めたとのことだ。同氏の回路設計技術の基礎は、ここで培われた。
そして大学院を修了後、彼が志望した職種は、回路設計ではなく、機械設計。八木氏にとって、それは「家電を“ 自分で”作る」ための当然な選択だった。
「モノづくりのための技術をトータルで学びたい」という思いをメーカーで面接するたびに伝えてきたが、なかなか理解されなかったという。
そうして何社も回った後、ようやく彼のモノづくりへの熱意が評価され、採用されたのが富士フイルムだった。そこで任されたのは、レントゲンやエコーなどの医療機器の設計。そこで八木氏は、機械設計(もちろん3次元CADも)と、製品を世の中に出すための量産プロセスを学ぶことになった。
「忙しい職場でした。 “アナログからデジタルへ”という世代交代の頃で、とにかく設計案件があふれていたことから、若手設計者もどんどん設計を任されました。業務は非常に大変でしたが、私はそこで5機種の設計に携わり、まさに“たたきあげ”で機械設計を覚えました」と八木氏は述べた。
「言われたことだけをやっていればいいという人にとっては、しんどい環境だったかもしれません(笑)」(八木氏)。
これも“ 家電を作るため”と、八木氏はさまざまなことに果敢にチャレンジしていった。「試作機も一から自分で組み立てました。自分で組み立てられないような物は、当然、量産に通してくれません。仕事を覚えたてのころは、よく怒られましたし、何度もやり直しをさせられました」(八木氏)。
そして自分が担当する装置や部品の量産現場には、極力足を運ぶようにしていたという。
「当時、設計者が現場(工場)に行く機会は減っていたと思います。“ 3次元データを現場に送れば、形になる”という時代にすっかりなっていて、メールでコミュニケーションを終えることが多かった。でも、現場にいく機会が全くなかったわけではありません。量産がスタートするたびに、自分から手を挙げて、できる限り毎日通うようにしていました」(八木氏)。
医療機器というのは、立派で高価な自動設備がなければ作れないものだと思っていたという八木氏。いざ現場に通ってみると、「ハイテクな医療機器も結局、人の手が作り上げている」ことを目の当たりにし、“腑に落ちる”感覚がし、「人が作っているなら、自分の手でだって製品は作れるはずなんだ」と励まされたという。
そうして仕事にもだいぶ慣れてきて、製品開発というプロセスの全体が見えてきたころ、八木氏は勤務時間外に個人的な製品開発に取り組み出し、今日のSTROKEの原型となるデスクライトの試作品も製作した。
富士フイルムに入社したときには、“ 自分で家電を作る”という夢を持ってはいた。しかし、「いつまでに辞めよう」ということを決めていたわけではなく、「本当に辞めるのかどうか」も実際のところ、分からなかったという。
しかし、彼が考えていたよりも早く、“ そのとき”は、入社して3年と9カ月後に訪れた。2011年1月末のことだった。
「自分でも家電が作れる」知識がある程度集まったと実感し、起業の資金もたまってきたのが、ちょうどそのころだったという。趣味として開発を進めていたデスクライトも、本格的に市場に出すには、本腰を入れなければ。「それなら、いまだ!」と、独立へ。
「“ 極力、若いうちにやろう”とは思っていました。それがうまくいくかどうかは、市場に問わなければ分かりません。問うた上で、全然ダメだったら、メーカーに戻らなくちゃいけないなぁ……と考えていたんです。失敗しても、再就職できる若いうちにって(笑)」(八木氏)。
考えたよりも早く独立が実現したのは、「職場が忙しく、仕事がたくさんあったことで、習得したい知識が早く集まったから」と八木氏は述べた。もちろん、そういった環境下で、自ら食らいつくように学んでいった彼の仕事への熱意が、よりそれを加速させたことは言うまでもない。
STROKEの設計開発
八木氏がSTROKEの構想を思い付いたのは、前述の通り、富士フイルム在職中だった。その着想となったきっかけは、シチズン電子のあるLEDモジュールだった。
電子部品商社の岡本無線電機の営業担当者が富士フイルムを訪れた当時、八木氏が担当していた設計では残念ながら使うことはなかったが、“個人的に”大変興味を持ったという。特に感心したのは、珍しい広角タイプのLEDであったことや、“ 横に長い”ユニークな形状だった。
「“ これを横向きに配置して細いパイプに収めると、光源部がとてもシンプルになる”……というふうに、デスクライトの案が頭の中でどんどん具体的になっていきました」(八木氏)。
そのとき持ち込まれたLEDの演色性はごく一般的だったが、さらにカタログには掲載されていない高演色性の物も作れるという話を聞いたという。
「広角で、かつ演色性も高いとなれば、素晴らしいデスクライトができそうだ!」――メーカーやデザインの現場で、製品や部品の色を正確に確かめたい際は、高演色性蛍光灯が設置された専用の部屋に移動しなければならないが、そこで設計作業はできない。設計やデザインをする自分のデスクで、それができればどんなに便利だろうか。
同社は幸い、少数でも良心的な値段で、高演色性のカスタム品の製作に快く応じてくれたという。なお、そのLEDはいまでもカタログに記載がない特注品となっている。
「自分がほしい“最高の光”が手に入る! これはもう、作るしかない!」と、八木氏は、勤務時間外で、“放課後クラブ”的にLEDスタンド開発にいそしんだ。
職場にある3次元CADは使えないので、八木氏が調べたところ一番廉価だった「Alibre Design」を自宅のPCにインストールし、製品の構想を練っていった。現在も、Alibre Designを使っているということだ。
「製品開発は、誰でもできる時代になりつつあります。一昔前は、参入の壁が高く、個人ではそういう発想に至らなかったのだと思います。いまは、技術情報もインターネット上に豊富にあり、CADなど開発ツールの値段も下がってきました。たとえ週末起業の個人であっても、製品開発することが可能になってきていると思います」(八木氏)。
八木氏は、富士フイルム在職時代からのMONOistの読者。「MONOistなどネット上にある、あちらこちらの技術情報を寄せ集め、横断的に活用することで、例えばSTROKEのような製品を作ることが可能です」と話してくれた。
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