より良い音響空間を生みだすためのCAE:踊る解析最前線(5)(1/2 ページ)
人の感性が左右し、目に見えない音響工学の世界でCAEはどう活用しているのか。建築設計でもフロントローディングの概念は同じだ。
音響工学は、広く「音」を取り扱う学問で、それ故にカバーする範囲は非常に幅広い。音の発生・伝搬を電気的にコントロールする電気音響技術や、音の聞こえ方を深く追求する聴覚分野、さらには人間の耳には聞こえない音を工学的に扱う超音波技術までをブロードにカバーする境界領域の学問分野である。
そのうち建築音響工学は、建築、都市などの「空間」における音の伝搬を取り扱う学問領域だ。コンサートホールなど音響設計を重視するような施設はもちろん、近年は学校など各種の公共施設やそのほかの民間施設でも、音響設計を行う場合、この建築音響工学の技術が応用される例が増えている。
「建築物内部を良い音響空間とするためには、建築プロジェクト初期段階の計画・設計段階で適切な音響的処置を施す必要があるんです。当研究室では、これを行うための音の伝搬の予測手法を研究しています」。そう語るのは東京大学 生産技術研究所の准教授 坂本 慎一博士である。
坂本氏は応用音響工学の特に建築音響・騒音制御を専門とし、「都市環境騒音の予測・対策・評価」「室内音響予測法・設計法」「音場シミュレーションの開発と応用」などをメインテーマとして研究を行っている。
例えば、コンサートホールの評価は“感性”に関わる部分が大きく、万民の感性を満足させるように制御するのは難しいという。その音響的処置を施すための予測手法の研究では、縮尺模型を用いた音響模型実験手法による実験も行うが、もう1つの有力な音場予測手法として、数値解析による音響シミュレーションを使っている。
「ひと口に音響シミュレーションといってもその手法はさまざまで、それぞれ強みと弱みがあり、どれを使うかは研究者によって異なります。私自身は波動数値解析法の一種である差分法に基づくシミュレーション手法を利用しています。主に時間領域有限差分法による波動音響シミュレーションの手法を開発し、これを用いているわけです」(坂本氏)。
ご承知のとおり、有限要素法とは対象となる構造体を、その中身まで含めた全体を細かくメッシュで切って計算していく方法だが、境界要素法は構造体の中身の部分は省略してしまい、構造体の境界部分だけをメッシュで切って計算する方法を取る。いわば3次元CGにおけるサーフェスモデルをメッシュで切っていくようなイメージだ。このような方法が可能となるのも音の伝搬ならでは。通常では構造体の中の物質密度なども大きく影響するが、建築物内の音の伝搬においては、室内の空気はホモジニアスで均一な性質を持ったものとして扱えるからである。
*ホモジニアス:均質な様子。同質な様子。同種な様子。
「私が差分法を選んだのは、これが理論的にシンプルで比較的簡単に扱える手法だからです。有限要素法は、微分方程式を一度積分方程式に直すなど複雑な操作が必要となり、精密に行えますが計算自体は非常に大規模になりがちです。特に大きな空間全体を、深く考えずに細かく切って計算しようとすると、数年がかりなんてことになりかねません」(坂本氏)。
これに対して、坂本氏が採用している「時間領域有限差分法」は、音場を支配する波動方程式における微分項を差分に置き換えて扱う手法で、原理的に簡単であり計算時間も短く済む。単純明快であるが故に応用範囲は非常に広い。
一方、単純であるが故に精度面が気に掛かるが、時間領域有限差分法はほかの手法と比べサイズの小さなメッシュとすることができ、そうすることによって実用上十分な精度を確保している。また、空間すべてをフルに計算するとコスト面で不利なうえ、無駄が多いこともあり、そのような場合には部分的に限定して行う手法も効果的だという。例えば高い周波数帯の音は考えから外し、周波数帯域を低い方だけに区切って計算するなどの方法である。
「ホールなどでも例えば“人間の声”の響きを主体とするような建物なら、対象を500Hzから2kHzほどに区切って計算します。人声の周波数帯域はこれでほぼカバーでき、その建築の人声の伝搬特性が計算できるわけです。こうした細かな操作が必要になるので、作業で使用するソフトウェアは基本的にはすべて自作しています。市販の汎用ソフトでは、やはり細かい個所が思いどおりにできませんからね。研究自体に独自性を持たせようと思ったら、解析ソフトの方にも市販品ではできないような独自性が必要になるんです」(坂本氏)。
見えない「音の伝搬」を見えるようにするために
このように、坂本氏が行っている研究は、建築物のより良い音響設計を合理的かつ効率的に行うための手法やツールを開発する研究だといえる。しかし、研究自体は完成途上であり、実際の建築プロジェクトに応用されるようになったのも、比較的最近のことだ。
「例えばコンサートホールなどを設計する場合、その初期段階でコンピュータ内においてホール内の音の伝搬が自由に視覚化できたとしたらどうでしょう? ホールの形を考えるとき、設計に非常に役立ちますよね。音響的な欠陥がひと目で分かれば、意匠的な美しさだけでなく、音響的にも優れた設計が行えるという理屈です。裏を返せば、そんなふうにならない限り、普通の意匠設計者が音響のことまで責任を持つのは困難です。音の伝搬は人の目で見ることができないし、一般の意匠設計者がその伝搬の仕方まで把握するのは非常に難しいからです」。
現状、コンサートホールのような大規模建築物では、シミュレーションの計算自体が大規模なものとなってしまうため、まだこうした大規模案件に使われた例はほとんどない。実際、当初は坂本氏も、自動車メーカーとの共同研究でクルマの車室の騒音伝搬をシミュレートして車室の設計に応用するなど、応用は比較的規模の小さなものから始まった。しかし、音が主役ではない建築物でも良質な音環境を確保することが重要になるケースは決して少なくない。近年はこうした建築物、例えば公共空間や学校施設、スタジオなど、音環境が重要になる比較的小規模な建築物の音響設計支援として、多くの実績を生み出している。
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