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関東大震災を機に自動車に着目した佐吉と喜一郎、力を合わせ自動織機も完成形へトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(11)(2/6 ページ)

トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第11回は、1922年(大正11年)〜1924年(大正13年)の日本の経済、政治の状況と合わせて豊田佐吉と喜一郎の歩みを見ていく。また、関東大震災を機に2人が着目した自動車の日本における市場拡大や、自動織機の完成形に向けた発明についても紹介する。

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3.豊田喜一郎が注目した英国工場の問題

 27歳の喜一郎は1922年2月下旬、フランス南部の港都市マルセイユから箱根丸に乗船し、途中、上海に立ち寄って帰国。そして、12月4日(飯田)二十子(はたこ)※3)と結婚。

※3)豊田二十子(トヨダハタコ、1901年(明治34年)〜1984年(昭和59年))は、京都府で生まれた女性。トヨタ自動車工業 社長 豊田喜一郎の妻。高島屋4代目飯田新七の三女で、京都府立一女卒。大正11年トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎と結婚、創業時代の内助の功ぶりは有名。長く東京・赤坂に住み、トヨタ自動車 会長 豊田英二をはじめ、東京の学校に通った豊田一族の子弟の面倒を見た。

 喜一郎は、1922年(大正11年)1月15日から約2週間、英国北西部のグレーター・マンチェスターにあるオールダムに滞在し、世界最大級の繊維機械メーカーであるプラット・ブラザーズ(Platt Brothers & Co.)の工場で実習した。

 そこで喜一郎が注目したのは、当時の英国工場の作業内容や生産性の低さ、技能/精度の問題であった。

 当時世界的規模の繊維機械企業であるプラット・ブラザーズの旧工場で、紡績機械の製造工程や方法、コップ交換式自動織機について集中的に実習、研究した。滞在中には、プラットの操業状況や、コップ交換式自動織機の設計図などについて、複数ページにわたって詳細な日記を残している。

 以下に、プラットの工場で喜一郎が観察した問題点を挙げよう。

1)作業員の緊張度、労働態度が低い

 喜一郎は次のような記述を残している。

  • 「少し仕事をしては、すぐ遊んでいる」
  • 「小物を遊びながら取りに行っている」
  • 「8時間の労働時間の中で3時間ぐらいしか仕事をしていない」
  • 「不満を言ってなかなか仕事をしない」

 ここでの要点は、多くの時間が生産的活動に使われておらず、仕事への集中/自覚が乏しい様子を指摘している。

2)部品の加工精度が低い

 機械部品の精度が不十分だったため、組立工程で部品が所定の位置に取り付けられないことが頻発していた。

3)その結果としての無駄な作業と生産性の低さ

 部品が組み込めないと、作業員は毎回窓際まで往復し、やすりを使って手で部品を削り調整する必要があった。しかも、1回削って済むとは限らず、何度も同じ動作を繰り返していた。

 その結果として、組立現場とやすり置場の往復だけで時間が過ぎ、生産現場での実作業時間がほとんどなくなり、全体の生産性を阻害していた。

4)その後も改善されなかった状況

 この状況は、8年後の1930年にもほとんど改善されていなかった。これは当時の英国の成熟産業が技術革新や生産管理改善に積極的でなかったためでもあり、日本の産業が後発ながら効率化に進む余地が大きいことを示している。

5)1930年のエピソード:プラット社長と喜一郎、古市勉

 1930年にプラットが繊維機械分野で他社と合併した後、プラットの社長(Preston)が日本を視察した。喜一郎と古市勉(当時の技術者。三井物産に所属、後に豊田家と深い関係を持つ)を送別の食事に招待した際、次のようなやりとりがあった。

プラットの社長(Preston)の発言:「合併により品質は良くなったので、ぜひ多く売ってほしい」

古市勉の返答:「期待したいが、最近のプラットの品物は品質が落ちており、ミスが多い」

 この結果、同社長の不興を買ってしまった、という逸話が残っている。

 以上の話の意義をまとめると、当時の英国工場の問題が浮き彫りになるとともに、以下の2点を指摘できる。

  • 作業者の意識や規律が弱く、従来の職人的労働に頼っている面が強かった
  • 部品精度や生産工程の仕組みが未整備で、無駄な時間と労力がかかっていた

 この喜一郎の体験は、後の日本産業における生産管理/品質管理の重要性を深く認識させるものとなった。喜一郎はこの経験を基に、効率と品質を重視する工場づくりや生産方式に注力するようになる。このオールダムでの経験を通じて、日本の国情に合った独自の「モノづくり」の思想を深め、後のトヨタ生産方式の礎となる「カイゼン」の精神にも影響を与えた、と考えられる。

 上述の、「作業員の緊張度(努力水準)や労働態度が賃金水準に依存し、低賃金では労働態度が低くなる」といった視点は、現代の「効率賃金仮説(Efficiency Wage Hypothesis)」※4)の基礎となる考え方だ。この点について言及した最初の経済学者として、最も重要な人物はアルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall)※5)がおり、喜一郎と同様の視点を有すことは、一考に値する。

※4)効率賃金仮説(Efficiency Wage Hypothesis)とは、企業が労働者の生産性を向上させるために、市場均衡賃金よりも高い賃金(効率賃金)を支払う方が、結果として利益が最大化されるとする経済理論。シャピロとスティグリッツ(Shapiro-Stiglitz model)によって主に提唱され、高い賃金が労働者の「サボり」を防ぎ、離職率を低下させ、優秀な人材の定着に寄与するというメカニズムを説明。この理論では、結果的に高賃金による失業(非自発的失業)が発生し得ることを指摘。

※5)アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall、1842〜1924年)は、英国ケンブリッジ大学教授で経済学者。新古典派経済学を代表する研究者。主著「経済学原理(Principles of Economics)」(1890年)では需要と供給の理論、すなわち限界効用と生産費用の首尾一貫した理論を束ね合わせた。この本は長い間、英国で最も良く使われる経済学の教科書だった。マーシャルの「経済学原理」は、ケインズやピグーに受け継がれ、スミスの「国富論」、リカードの「経済学および課税の原理」、マルクスの「資本論」、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論」とともに経済学の五大古典とされ、今日の経済学の根幹を成す。

 1922年(大正11年)に米欧視察から帰国した喜一郎は早速、鈴木利蔵、大島理三郎たちと本格的に自動織機の研究開発に取り組んだ。翌年の1923年には試作機の稼働を始め、1924年には200台規模の試験を経て、1925年には「ポカよけ」機構を備えた新型自動織機が完成した。

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