豊田佐吉の歩みを明治初期の日本と世界の自動車技術の発展から浮かび上がらせる:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(5)(2/5 ページ)
トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第5回は、明治初期に当たる1867年(慶応3年)〜1891年(明治24年)の世界のクルマの発展や日本の政治経済の状況を見ながら、自動織機の開発に取り組んだ豊田佐吉の姿をより鮮明に浮かび上がらせていく。
商業用液体燃料内燃機関、4ストローク1サイクルエンジンの発明
1871年(明治4年)、廃藩置県、全国の府県を改廃(3府72県となる)。戸籍法(翌1872年2月1日より実施:壬申戸籍)、日清修好条規。岩倉使節団派遣。経済面では、新貨条例制定して両、分、朱を単位とする硬貨を発行し、金本位制※17)を実現。前島密の建議で郵便制度が発足。
1872年(明治5年)、田畑永代売買禁止令を廃止。これで、土地の売買ができるようになった。学制発布。新橋−横浜間の鉄道開通。琉球藩設置。初めて全国の戸籍調査を実施(当時の総人口は3311万825人)。太陽暦の採用。経済面では、官営模範工場として仏国式の先進技術(300台の最新式製糸機械)を導入した群馬県の富岡製糸場など、官営模範工場の新設、経営を通じて幅広い勧業政策を進めた。
自動車関連では、図4に示す米国人のジョージ・ブレイトン※18)が初の商業用液体燃料内燃機関を発明した。
※17)金本位制(gold standard)とは、狭義には、一定量の金を標準的な経済単位とする通貨制度。広義には、一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた金額を表すもので、商品の価格も金の価値を標準として表示する。この場合、その国の通貨は一定量の金の重さで表せ、これを法定金平価という。1871年(明治4年)の新貨条例で、新貨幣単位円を確立したが、金準備が十分でなく経済基盤が弱いため、日本から金貨の流出が続いた。1871年に法律を改めて暫時金銀複本位制としたが、実質的には銀本位制であり、日清戦争後に清から得た賠償金3800万英ポンドの金を準備金として1897年には平価を半分に切り下げた貨幣法を施行し、実質的に金本位制に復帰した。当時の日本人は金の価値に鈍感であった。
※18)ジョージ・ベイリー・ブレイトン(George Brayton、1830〜1892年)は、米国ロードアイランド州で生まれた機械技術者、発明家。ガスタービンの基礎となり、現在ではブレイトンサイクルと呼ばれる定圧エンジンを発明。1872年、当初は気化ガスを使用し、後に灯油や石油などの液体燃料を使用する定圧内燃機関の特許を取得し、ブレイトンレディモーターと呼ばれた。1892年、エアブラスト燃料噴射システムを備えた別の4ストロークエンジンの特許を取得し、ディーゼルエンジンにも貢献した。
1873年(明治6年)、徴兵令施行。神武天皇の即位日を2月11日に改めて、紀元節を制定。地租改正。これより政府の税収は安定したが、国民は税を現金で納めなければいけなくなった。征韓論問題(明治6年政変:西郷隆盛、板垣退助などが下野し、愛国公党を設立、民撰議院設立建白書を提出)。経済面では、軽工業や農業を担う内務省を設置。教育面では、1873年学制を公布し近代教育制度を構築。その後1879年教育令で義務教育が最低16カ月(毎年4カ月以上を4年間)。なお、1886年(明治19年)の小学校令で4年、1907年(明治40年)の改正小学校令で6年と定められ、小学校への就学率はほぼ100%にまで高まった。これらの施策によって、欧米諸国の産業革命の成果を導入するための条件を急速に整えていった。
1874年(明治7年)、民選議院設立建白書。佐賀の乱。台湾出兵。
1875年(明治8年)2月13日、平民苗字必称義務令。4月14日、立憲政体の詔により、元老院、大審院、地方官会議を設置し、漸次立憲政体樹立の詔勅発布。樺太・千島交換条約。
1876年(明治9年)、日朝修好条規(江華条約)。帯刀を禁止(廃刀令)。廃刀令によって旧藩士(武士)の怒りを買い、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、思案橋事件が各地域で勃発。筑摩県以下の14県を廃合(3府72県から3府35県に)。金禄公債証書発行条例(秩禄処分)。
自動車関連では、ドイツ人のニコラウス・オットーが、図5に示す石炭ガスで動作する効率的な内燃機関のオットーサイクル※19)を発明した。そして、ニコラウス・オットーがゴットリープ・ダイムラー※20)、ヴィルヘルム・マイバッハ※21)とともに、図6に示す実用的な4ストローク(行程)1サイクル(周期)の内燃機関を開発した。
※19)オットーサイクル(Otto cycle)とは、ガソリン機関の熱効率や出力を考えるときの基本となるサイクル(周期)。等容サイクルともいう。ドイツ人オットーの製作した4サイクル式のガス機関がこのサイクルを実現したため、一般にこの名が使用されている。図5は、オットーサイクルの圧力pと比容積vの関係を表したもので、断熱圧縮(1→2)行程、等温加熱(2→3)行程、断熱膨張(3→4)行程、等温冷却(4→1)行程の1サイクル(周期)を繰り返す。ガソリン機関、軽油機関などの火花点火機関およびディーゼル機関などで実現している。実際には空気と燃料の混合ガスは2→3で燃焼し、この間で熱量Q1が外部から供給され、4→1の間で熱量Q2が大気中に放出される。このサイクルでは圧縮比が大きいほど熱効率は良くなる。YouTube映像「Reconstitution 3D : tour Eiffel et Exposition Universelle」の8〜9分で詳細を確認できる。
※20)ゴットリープ・ヴィルヘルム・ダイムラー(Gottlieb Daimler、1834〜1900年)は、ドイツのヴュルテンベルク州シュトゥットガルトのショルンドルフで生まれた技術者、実業家。内燃機関と自動車開発の先駆者。初めはN.A.オットーの会社で働いた後、自ら自動車工場を興し、高速液化石油燃料エンジンを発明した。1882年、ヴィルヘルム・マイバッハとともにあらゆる種類の移動装置に搭載できる小型の高速エンジンを開発。1883年に彼らは水平シリンダーレイアウトの圧縮充填液体石油エンジンを設計。1883年、今日の自動車機関の原型となった小型高速ガソリンエンジンの特許を取得し、改良を続けるとともに1885年に二輪自動車、1886年に四輪自動車の製作に成功し、ガソリン自動車(ガソリンカー)実用化の基礎を築いた。1890年、彼らはダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト(DMG)を設立。1892年に最初の自動車を販売。1926年、ゴットリープ・ダイムラーの会社とカール・ベンツの会社が合併してダイムラー=ベンツを設立した。第二次世界大戦中は、空軍用エンジン、戦車など軍需品を生産したため工場は大被害を受けたが、戦後は1945年にトラック、1947年に乗用車の生産を再開し、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の企業として発展を遂げる。1958年、アウト・ウニオンの全株式を取得(1965年にフォルクスワーゲンへ売却)、1961年マイバッハ、1963年ポルシェ・ディーゼル・モーターを買収して事業を拡大した.1989年に持株会社となり、自動車事業をメルセデス・ベンツ、航空宇宙事業をダイムラー・ベンツ・アエロスペース、電機電子事業をAEG、金融サービス他をベンツ・インターサービスに再編。1997年には、メルセデス・ベンツを吸収し直轄下に置いたのをはじめ、AEGを解体するなど経営の効率化を図ったが、1998年に米国のクライスラーと合併し、ダイムラー・クライスラーとなった.しかし、業績不振のため2007年に、クライスラー部門を米国の投資ファンドに売却して合併を解消。社名をダイムラーに変更している。
※21)ヴィルヘルム・マイバッハ(Wilhelm Maybach、1846〜1929年)は、ドイツのハイルブロンで生まれたエンジン設計者、実業家。1890年代、当時世界の自動車生産の中心地だったフランスでは「設計者の王」として称賛される。ダイムラーの死後、1902年後半にメルセデスモデルを製造。1909年に息子カールとともにマイバッハ・モトーレンバウを設立し、ツェッペリンエンジンを製造。1919年に同社は「マイバッハ」というブランドで大型高級車の生産を開始した。
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