トヨタの源流となる自動織機はどのような技術の変遷を経て生まれたのか:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(4)(2/5 ページ)
トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第4回からは、トヨタ自動車創業以前に時代を巻き戻し、豊田佐吉の生涯と、その時代背景となる日本の政治や経済の状況を見ていく。まずは、豊田佐吉が発明したことで知られる自動織機のことを理解するために、織機技術の変遷を概観する。
(2)ジェニー紡績機
1764年(宝暦14年)頃に登場したジェニー紡績機(spinning jenny)は、図3に示すように、8本の糸を同時に紡ぐことのできる多軸紡績機である。英国人ジェームズ・ハーグリーブス※8)が発明した。1人の職人が一度に8個以上の紡錘(スプール)を扱えるため、糸を作る紡績にかかる時間を劇的に短縮した。(1)で述べた飛び杼の発明による糸不足の解決に貢献。初めは紡錘数8本だったが、後に80本を超えた。ジェニーはハーグリーブスの娘の名前である。手で操作でき、小型で安価であったため、旧来の家内工業に広く取り入れられた。糸の品質においては後述のリチャード・アークライト※9)が発明した水力紡績機に劣ったが、織物工業の近代化の重要な要素となった。
※8)ジェームズ・ハーグリーブス(James Hargreaves、1720〜1778年)は、英国ランカシャーで生まれた大工、発明家。1764年、ジェニー紡績機を発明。
※9)リチャード・アークライト(Sir Richard Arkwright、1732〜1792年)は、1771年に水車を動力とする水力紡績機を発明。1769年、水力紡績機の特許を取得。従来は人間の指で行っていたことを木製または金属製のシリンダーで行うようにし、糸に強い撚りを与えられるようになった。これにより綿糸を安価に生産可能となり、それを使って安価なキャラコが織れるようになり、その後の綿織物産業発展の基盤を築いた。
(3)水力紡績機
1769年(明和6年)、英国人リチャード・アークライトは図4に示すように、1738年にポール※10)とワイアット※11)によって考案されたローラードラフトとフライヤー付紡車を組み合わせ、水力で自動的に紡績できる大型の水力紡績機を発明、特許を取得。ウオーター・フレーム(water frame)とも呼ばれる。異なる速度で回転する2対のローラーで繊維束を延伸する。水車を動力とし連続的作業で強力な糸を紡出、それまでのジェニー紡績機による糸では、強度の点で弱く困難だった綿経糸の大量供給を可能とした。
これによって、家内工業、工場制手工業から工場制機械工業に変わり、産業革命期の英国綿工業確立に大きく寄与した。
しかし、ジェニー紡績機で作る糸は細いが切れやすく、太い糸を作るのには不向きで、しかも手動であり、仕組みも手作業の手順をそのまま装置化したようなものだった。また、リチャードの水力紡績機の糸は丈夫で太かった。そこで、次に紹介するミュール紡績機では細くて丈夫な糸を作ろうとして生まれた。
※10)ルイス・ポール(Lewis Paul、?〜1759年)は、英国バーミンガムで生まれた発明家。1738年、綿糸工場で綿を紡ぐための水力紡績機の基礎となったローラー紡績を発明し、特許取得。
※11) ジョン・ワイアット(John Wyatt、1700〜1766年)は、英国リッチフィールドで生まれた発明家。職業は大工で、バーミンガムで紡績機の開発に着手。1733年、綿糸をローラーに通して、さらに高速の2組目のローラーに通して伸ばすという概念に基づき、ルイス・ポールとともに世界初のローラー紡績機を製作。
(4)ミュール紡績機
1779年(安永8年)に英国人サミュエル・クロンプトン※12)が図5に示すようなミュール紡績機(spinning mule)を発明した。
これらの技術によって、紡績過程は大幅に改善されたが、織布過程は飛び杼以来目立った改良がなく、生産能力が不足していた。
※12)サミュエル・クロンプトン(Samuel Crompton、1753〜1827年)は、英国ランカシャーのボルトンで生まれた発明家。1779年、水力紡績機のローラーによる粗糸引き伸ばしの機構とジェニー紡績機の紡錘による撚りかけの原理を組み合わせた、細くて均質な、強い糸の作れるミュール紡績機を発明。幼時期に父と死別したため早くから織布工として生計をたて、原料糸の自給のためジェニー紡績機を使用したことから、1772年以降その改良を志す。
ミュール紡績機はジェニーと同じく、撚りかけと巻き取りが交互になされ、その操作と構造は水力紡績機よりも複雑だったが、経糸、緯糸のいずれも生産が可能で、しかも細糸が生産できる点でそれら両機種より優れており、急速に普及した。ミュール(ラバ。ウマとロバの混血)の名は、両機種の特徴を兼ね備えていることに由来する。当初、ミュールは手動であったが、その後動力化が試みられ、1830年、発明家ロバーツにより自動ミュール紡績機として完成され、19世紀末まで英国綿工業の主力機種となった。しかしクロンプトン自身は、1780年に特許を取ることなくミュールを公開したため、この発明によってほとんど得るところがなく、1812年、国会によりわずか5000ポンドの一時金を与えられただけであった。経営の才に恵まれなかったため、彼自身の事業は失敗し、没した。
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