日本の自動車業界の「当たり前」は、なぜAUTOSARの「当たり前」にならないのか:AUTOSARを使いこなす(5)(2/4 ページ)
車載ソフトウェアを扱う上で既に必要不可欠なものとなっているAUTOSAR。このAUTOSARを「使いこなす」にはどうすればいいのだろうか。連載の第5回では、第4回で挙げた避けるべき代表例の1つ「標準をただ従うものとして捉えること」について掘り下げてみよう。
その前におさらい:標準、標準化と共通認識
前回の繰り返しになりますが、「誰か別の企業が、使いやすい標準にしてくれたら使えば良い」という、いわばタダ乗りのアプローチは、参加者数があまりにも少ないため、機能しません。しかし、問題はこれだけではありません。
具体的な問題について述べる前に、まずは少しおさらいをさせてください。
AUTOSARに限ったことではありませんが、各種団体が作成する標準には、その土台となる共通認識(暗黙ともなりがちな「当たり前」)がある場合が少なくありません。標準もコミュニケーションの一形態ですし、標準を作るための標準化活動の中では多くのコミュニケーションが必要となります。
コミュニケーションにおいて「当たり前のこと」がより多く共有されていれば、コミュニケーションにおけるコスト(手間など)を抑制することができます。標準に記述する内容はスリムにすることができますし、標準化活動での議論をより円滑に進めることができるでしょう。
当然ながら、標準化に関わる集団を構成するメンバーや目的、作り上げようとする標準の性質などによって「当たり前のこと」は異なるでしょう。しかし、その相違点は、必ずしも全てではないものの、標準化を進める中でのコミュニケーションを繰り返す中で徐々に集団の中での受け入れが進み、「当たり前のこと」の一部として共有されるようになります
「当然想定すべきユースケース」や「価値判断における指標や優先度基準」などは、この「当たり前のこと」の代表例といえるでしょう。
日本での「当たり前」、AUTOSARでは本当に「当たり前」?
AUTOSARに長年関わり続け、標準化活動に実際に参加する中で、つくづく実感していることがあります。それは、日本での「当たり前」、つまり、ユースケースや価値観などに関する共通認識や期待などが、AUTOSARにおいては受け入れられているわけではないのです。AUTOSARでの「当たり前」のうち、日本ではあまり受け入れられないであろうことについて、その代表例を以下に示します。
- 標準には、標準化したい範囲、かつ、合意されたものだけを規定する
- 標準は、それに基づく製品の開発に必要な全ての情報を記述するわけではない
- 標準は、完成した実装仕様書ではない
- 標準化活動は、ニーズに基づいて進められる
- 初期のニーズに大きく左右される(早い者勝ち)
- 後発の派生ニーズに対しては、ある程度の需要がない限り、初期ニーズに対するソリューションで対応することを求められる(その壁を越えるには、それなりの声が集まることが必要)
- 存在しないニーズやごくまれなユースケース、利用されることのないユースケースの組み合わせまでもカバーする必要はない。それらの組み合わせは必ずしも明文化されず、また、それらの実現上の考慮は必ずしも行われない
- 成り行きでしか、最終バージョンにはなりえない
- そもそも、何もかも全てを把握している人は存在しえないので、最初から完全なものにはなりえない
- AUTOSARの規模にもなれば、全てを把握している人はいない。私はもちろんのこと、各WPのトップクラスの方々でも、専門知識をもつ領域は限定される
- 完全を目指していないわけではないが、問題がありうることはあらかじめ想定している
- 不備や欠陥があれば、情報を共有し修正すればよい
- 不備や欠陥に関する情報はノウハウとして隠すべき対象ではなく、一刻も早い解決につなげるために、共有すべきもの
- 改良や機能追加などの要求があれば、互換性は最大限考慮しつつも可能な限り取り込む
- 新たなユースケースや機能が出てくることは避けられないので、変更要求も止まらない
- 時間が解決してくれるものに対しては、対処の優先度が低い
- 時が経てば、ハードウェア性能の向上などにより解決するものもあり、それらは今手間をかけたとしても得られるものの寿命が短い
- よって、性能向上の余地も重要ではあるが、すっきりしたアーキテクチャにするなどして今後のさまざまな改変ニーズなどに耐えられることの方がより優先される
特に1番目の内容への理解の不足は、国内で「AUTOSARに対する不満」(あるいは、「不足」「不備」「欠陥」などのもっと強い言葉)の多くを引き起こす要因となっています(「過剰」「不要あるいは無駄な機能が多い」などの言葉も同様でしょう)。私自身、そのようにおっしゃる方々には都度説明していますが、「標準ならば、かくあるべき」という強い思いをお持ちの方々の中で「正しいか否か」などの判断を急ぎがちな方々にとっては、どうも受け入れが難しいようです。
ある「当たり前」を共有する集団が作った標準は、異なる「当たり前」を持つ集団から見れば、過不足があるように見えても仕方がありません。なぜなら、後者にとっての「当たり前」が、前者にとっての「当たり前」にはなっていないからです。そう、実は、「正しいか否か」ではなく、ただ単に「違うか否か」の問題でしかないのです。
ですから、自分たちにとっての「当たり前」が正しいと信じて、「当たり前でしょ?」「自明でしょ?」のように言い放つだけで適切な場に出て説明をしないのでは(議論の一方的な打ち止め)、いつまでも何も変わりません。たとえ、それらの意見に対して一定の支持者が国内に多数いたとしても、AUTOSAR側での「当たり前」になっていなければ何の意味もありません。
また、2番目の「存在しないニーズやごくまれなユースケース」についてですが、少し考えてみてください。日本では一般的なニーズやユースケースであっても、これまでに誰もAUTOSAR側に意見表明していなかったとしたら、それは、AUTOSARにとっての「存在しないニーズやごくまれなユースケース」(「当たり前」ではないもの)扱いになっていると考えられはしませんか?(恐ろしい……)
では、どうしたら、自分たちにとっての「当たり前」をAUTOSARでの「当たり前」に少しでも取り入れてもらえるのでしょうか。
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