すし屋を諦め転職を繰り返した若者はなぜ自動車の生産技術者になれたのか:そして少年は自動車エンジニアになった(立志編)(3/3 ページ)
自動車メーカーに勤める現役の自動車エンジニアが自身の人生を振り返る。「定職にも就かずフラフラとしていた人間」が、業界内で認められるような自動車エンジニアになれたのはなぜなのか。3回に分けて波乱万丈の人生をお送りする。第1回は立志編だ。
異動
1990年の初春。
新規開発車両に向けた人員育成を目的に、工場の代表として生産技術に集められた人員は10人。
バンパーとランプを除く、外装部分の全てのシステムが私の担当領域となりました。
ドア領域だけが担当領域になると思っていた私は、ワイパーやスライディングルーフなど未知のシステムに対して不安に苛まれました。
「本当に自分にできるのだろうか?」
その時に思い起こされたのが祖母の教えでした。
それは「やりたいことがあるのなら最後までやり抜く心意気と段取りと人脈構築の大切さ」です。
- やりたいことを最後までやり抜くためには、何が必要なのか
- 必要なものを、どのような段取りで進めれば良いのか
- 目標を達成するために必要となる人脈は誰と誰で、どれだけの規模になるのか
足を運び頭を下げては必要な情報を集め、1つ1つの情報を整理しながら戦略を立て実践しました。つまずいては、再度足を運び頭を下げて必要な情報を集めて再度整理し戦略を立直し再度実践の繰返しでした。
「絶対にいいかげんな状態で工場に車両を持ち帰れない」との一心で、恥も外聞も薙ぎ払い無我夢中になって工場からの代表としての務めを果たそうとまい進した時期でした。
矢のごとく月日は流れ、自分が初めて手掛けさせていただいた車両が、工場の生産ラインを流れる日が訪れました。
1993年の春。
作業者の邪魔にならないように気配りしながら生産ラインを流れる車両について歩きました。自分自身が生産ラインにいた時には、猛烈なスピードで迫っては過ぎて行く印象が強かったその速度が、やたらと遅く感じたのを覚えています。
「何事も無く早くラインオフしろ」
心の中で何度も繰り返した言葉です。
ラインサイドから見るとゆっくりと流れる車両に寄り添いながら移動し、やっとラインオフの地点に到達しました。最後の砦はライン検査員です。傷の有無やドアの開閉機能などを検査します。
無事に手直し無しでラインオフ。
この瞬間。
猛烈に目頭が熱くなったことを今でもハッキリと覚えています。
ラインオフしたばかりの車両を、誕生したばかりのわが子のようになでまわしている私に、生産技術の課長から声が掛りました。
「君を正式に生産技術の一員として迎えたい。今後も一緒にライン設計をしてほしい」
1994年の春。
車両製造部から車両生産技術部へ異動となりました。
次回は風雲編。生産技術の仕事を続けていた越光は設計者を志す。そこでの新たな出会いが、自動車エンジニアとしての人生を根幹から変えてしまうことを、越光はまだ知らない。
筆者プロフィール
越光人生(ペンネーム)
自動車の製造会社に勤務するエンジニアであり、毎月のお墓参りを欠かしたことがない生粋のおばあちゃん子です。現在に至るまでいろいろと泥臭い人生を歩んできましたが、諦めが悪いのが私の唯一の取りえです。
前のめりになりながらも最後の最後まで諦めずに、その場その場ででき得る最大限の努力をしてきました。そのおかげか振り返ってみると紆余曲折しながらも随分と良い方向に人生が変わってきたなと感じている49歳です。
行き詰まり感や悲壮感に苛まれ、一歩を踏み出すことをためらっている人たちに、「一念奮起し最後の最後まで努力することを諦めなければ人生は変えられる」実例としまして、何がしかの参考にでもなれば幸いです。
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