DX(デジタルトランスフォーメーション)が進む中、製造業の中で記録されている知財や品質などのデータを、企業や部門をまたいで活用する機会が増えている。そこで重要になるのが、そのデータが改ざんされていないことを証明する「真正性」だ。トヨタ自動車は、知的財産部が直面したこの課題を起点に、データ保全サービス「PCE」を自社開発した。今では外部展開を行うこの取り組みについて聞いた。
そのデータが改ざんされていないことを証明できますか――。製造業において、データの信頼性をいかに確保し、どのように証明するかが、以前にも増して重要な課題となっている。
製造業では研究や設計、品質など多くのデータが蓄積されてきた。近年はグローバル化やオープンイノベーションの進展により、部門や企業をまたいでデータを共有する機会が増えており、改ざんを防ぎ、信頼性を保証する重要性が高まっている。
加えて、生成AI(人工知能)の活用も、この流れを後押ししている。AI活用が広がる中、学習やRAG(検索拡張生成)に利用するデータについても、出所や改ざんの有無を証明できることが重要になっている。データの「真正性」や出所を第三者的に証明できる仕組みを備えることが、製造業のデータ活用における前提になりつつある。
トヨタ自動車では、多くの取引先との関係上、こうした課題を強く意識していたという。もともと、自動車産業では、社外の企業や研究機関、サプライヤー、協力会社などと技術情報をやりとりする機会が多い。共同開発や技術契約などでは、互いに近い領域の知見を持っているからこそ、後になって知財トラブルになるリスクが発生する。さらに、拠点の海外展開が進み、図面や設計情報を海外拠点やパートナーと共有する機会も増えており、トラブルを未然に防ぐためにも解決策を模索していたという。
トヨタ自動車 先進データサイエンス統括部室長の山室直樹氏は「保有する技術情報やノウハウについて、いつの時点で、どういうものが存在していたのかを客観的に示すことや、それらが改ざんされていないことを証明することが求められる場合があります。こうした場面で、その事実を裏付ける手段を持っていなければ、不利な立場に置かれる可能性が高くなります」と説明する。
この意識をさらに高めたのが、コロナ禍を機に進んだ紙の電子化だった。山室氏は「紙文化だったところが一気に電子化され、ほとんどが電子データになりました。電子データは後から手を加えることもでき、改ざんされていないことを示す枠組みが必要だと考えました」と振り返る。
そこで知的財産部はまず既存のサービスや仕組みで対応できないかを検討した。しかし、自社の業務に即した仕組みは見つけられず「自ら作るしかないと考えました」(山室氏)。そこで、自社開発したのが、データ保全サービス「PCE(Proof Chain of Evidence)」である。
PCEは、データが「改ざんされていないこと」と「いつから存在するか」を証明できるクラウドサービスだ。ブロックチェーンに代表される分散台帳技術とタイムスタンプを組み合わせ、技術情報やノウハウ、図面、品質記録などの真正性を確認できるようにする。各国の証拠採用ルールにも対応しており、グローバルに展開する事業でも真正性を示せる。
最大の特徴は、実データそのものを預からない点にある。PCEでは、保全対象となるファイルから算出したハッシュ値を分散型台帳に記録する。ハッシュ値はデータから一意に生成される値で、データが少しでも変わると値も変化する。利用者はハッシュ値を照合することで真正性を確認できる。実データを外部に預けないため、機密性の高い技術情報やノウハウにも適用しやすい。
開発に当たっては、利用者に余計な負荷をかけないことも重視した。山室氏は「設計などモノづくりの現場は本来の業務だけで多忙を極めています。だからこそ、業務プロセスの中に自然に溶け込ませることがポイントでした。そうでなければ、よい仕組みでも使ってもらえません」と説明する。具体的には、BoxやSharePointなど既存のクラウドストレージと連携し、利用者がファイルを保存/編集すると、その都度自動でハッシュ値を算出して記録する仕組みとしている。別システムへの登録や手作業でのタイムスタンプ付与などは不要で、特別な操作なしに証跡を残せる。開発は2020年に始まり、試作版を経て、2024年に正式リリースされた。
PCEはまず、知的財産部の業務で活用を開始した。対象となったのは、特許の提案書や、特許として出願するほどではないものの、ノウハウとして保全しておきたい技術情報などだ。
その成果として山室氏は「コストと業務負荷の低減」を挙げる。従来、こうしたデータの真正性の証明を外部に依頼すれば相応の費用がかかっていたが、PCEを活用することで、より低コストで証跡を残せるようになった。加えて、これまで1件ずつ手作業で行っていた申請作業なども効率化され、業務負担が軽減されたという。
こうした仕組みは知財だけでなく、品質記録や設計情報など、真正性が求められるさまざまなデータにも適用できる。PCEは当初から、知的財産部にとどまらず社内外への展開を想定して設計された。
山室氏は「同様のニーズは、トヨタ自動車内だけでなくデータを多く扱う企業ではあるはずだと考えていました。そのため、トヨタ自動車内でも関連する部門に声をかけ、一緒に形にしていきました」と説明する。図面を管理する部署なども巻き込み、図面管理システムとの連携や既存業務との接続点を整理しながら、現場の負荷を増やさずに保全できる形を模索したという。
こうした取り組みを経て、PCEのコンセプトは社内外から高く評価されるようになっている。特に社内では「自分たちの業務にも使えそうだ」と関心を寄せる部門から相談が寄せられるようになった。その一例が、品質記録の管理に活用を始めた、電動垂直離着陸機(eVTOL(※))関連部品を手掛ける航空機部品事業である。
(※)eVTOL(イーブイトール):Electric Vertical Take-Off and Landing。短距離で多頻度の運航用に設計されており、都市圏にて通勤者や出張者、旅行者によるオンデマンド利用が見込まれる空飛ぶタクシー市場のニーズに適している。また、ヘリコプター、ドローン、小型飛行機の要素を持ち、信頼性、環境性(ゼロ・エミッション)、静粛性などに優れている。運用コスト、メンテナンスコストも低く抑えることができ、強化された安全機能も備えている。
トヨタ自動車は、2020年から空のモビリティの実現に向けてJoby Aviation(Joby)と協業しており、2026年6月30日にはJobyが開発するeVTOLの生産を担う合弁会社の設立に着手したことを発表している。
航空機部品事業では、空のモビリティ実現に向けた取り組みの一環としてJoby向けに電動モーター構成部品などの供給を行っており、2024年には航空宇宙・防衛分野の品質マネジメントシステム規格である「JIS Q 9100」の認証を取得した。JIS Q 9100は航空機や宇宙機器などの設計・開発・製造・検査・出荷における品質を確保するための国際標準規格だが、航空部品の製造においては、作業の指示書、製造記録などを厳格に管理し、必要な文書や記録を確実に残すことが求められる。
認証取得に向けた文書や記録の管理は手作業で進められたが、その文書保全の仕組みには課題があった。航空機部品事業で製造部門を担当する、トヨタ自動車 モノづくりエンジニアリング部 室長の西山洋之氏は「最初は文書保全の仕組みを、手作業をベースに整えていきましたが、帳票の台帳と実データを突き合わせる棚卸しも人手で行うなど、人に依存する部分が大きく、このまま10年、20年と続けていくのは難しいと感じていました」と振り返る。
そのため、これらを管理するツールや仕組みを探す中で、PCEの存在を知ったという。西山氏は「すぐに知的財産部へのヒアリングを行いましたが、『まさにわれわれが欲しかったものだ』とすぐに導入を決めました。社内にあったことに驚きました」と語る。
導入に当たっては、PCEをそのまま使うのではなく、既存の文書保存システムと一体化した運用を構築した。現場でPDFをBoxに保存すると、同時にPCEへ証拠チェーンが自動で登録される。旧版のファイルには自動で「旧版スタンプ」を付与してフォルダを分離し、上書きや旧版の識別漏れを防ぐ。これにより、文書がどの順序で改訂されてきたかも追えるようになった。帳票の台帳とも連携させ、Microsoftの「Power BI」で検索や閲覧ができるようにしている。
PCEの導入効果は、すでに複数面で表れているという。管理品質の面では、ファイル名のミスや保存漏れ、誤削除や改ざんリスクを低減し、旧版の識別も徹底できるようになった。管理工数の面では、棚卸しや一覧作成といった人手依存の作業が大幅に削減された。これにより、創造的な業務に時間を割けるようになったという。さらに、文書の改訂から保存、証跡付与、管理までの流れが標準化され、属人性の排除と監査対応の強化にもつながった。仕組みによる裏付けができたことで、「どこかでミスが起きるのではないか」という不安から解放され、現場スタッフの心理的負担も軽くなったという。
西山氏は「PCEは、導入のハードルが高い特別なITツールではありません。普段の文書保存や帳票管理を、より確実にするための土台です。使った方が楽になるのは間違いありません。少しでも不安や手間を感じている業務があれば、まずは一部から試してみることをお勧めします」と語る。航空機部品事業での取り組みは、トヨタ自動車内で品質記録管理においてPCEを利用する先行事例となり、同様の使い方が他部門でも広がっているという。
さらに今後、PCEの活用領域として期待されるのが、生成AIを含むデータ活用の基盤づくりだ。企業でAIの業務活用が広がれば、学習やRAGに用いるデータが、どのようなプロセスを経て作成されたのか、いつ更新されたものなのかを説明できることが必要になる。AIに対する各国の規制や、データ主権の確保などの問題からも、今後さらにこうした保証は必要になってくるだろう。
山室氏は「自社のデータを使ってAIをカスタムしていく場合、データのメンテナンスが肝になります。そのデータがどこから来たのかを管理できていなければなりません。AIで活用するデータの価値を保証する意味で、PCEの活躍の場所があると考えています」と訴える。
PCEは、人に依存するのではなく、業務プロセスの中で自然に証跡を残し、データの信頼性を担保する。そこには、「未然防止」や「品質はプロセスで作り込む」といった、トヨタ自動車らしい品質思想が反映されている。AI時代の製造業では、データを蓄積するだけでなく、その信頼性を保証できることが競争力になる。PCEは、その基盤を支える仕組みとして、今後さらに重要性を増していきそうだ。
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アイティメディア営業企画/制作:MONOist 編集部/掲載内容有効期限:2026年9月20日